館長コラム◆◆  

■「路上生活者支援食事提供」13年を終えて
「中国料理の上手な韓国人、おまけに日本語も話す」、或いは「日本語を話す中国人が韓国料理を作る」それが路上生活者救済施設デンバーレスキューミッションでの私の「存在」です。以前はムキになって否定していましたが、今では「ヤップ(そうだ)」といって聞き流します。自分の身分を明かさない、と云うのが暗黙のルールの為、否定しても訂正ができないのです。まさに私は正体不明のオリエンタルです。

20年位前でしたでしょうか、まだこのプロジェクトを始める前の事です。顔見知りになったホームレスを道場の台所に連れ込んで語り会いました。昔の道場は川の近くにあり、そこの橋の下で生活する人が沢山いたのです。お決まりのアル中でしたが、その彼が道場に入るときに薄汚れた帽子をとってペコリと頭を下げるのを見ました。教えても忘れる門下生が多い中でチョット感動しました。とても寒い時であり、別に道場は教会でもないので、熱燗を1本つけて、ヒスパニック系の彼に合わせてメキシカンオムレットを作りました。
ところがです、「温かいうちに」と勧めるのに酒も、食事も食べないのです。私は少し腹が立ってきて「折角作ったのに、ドラックかなコイツは」と疑ってしまいました。
再三勧めると彼は鼻水涙をすすってポツリと言いました。「サンキュウ」しばらくして「ガク、私達はもう暖かい食事を忘れたのよ、今の俺の口には温かいものは熱いものなんだ、ホイルがあったら包んでくれるかい、半分は夜食にするから」そういって冷めてしまった日本酒をグーと飲み干しました。
彼は静かな声で色々な話をしてくれました。「自分は今の生活を決して良いものとは思っていないが、かといって心までは貧しくなっていない。現在の自分の立場をしっかりと認識し、静かに人生を考え、整える時間と自分は考えている」

其の頃の日本館道場は「どん底マル貧」のときでヒーターもなく、私は着膨れで膨らみ、もっとも惨めな合気道生活を自認していました。それを打ち砕いたのは彼、つまり一人のホームレスでした。「もっとすごい奴がいる」彼の一言が私自身を惨めさから救い上げてくれました。
そのまま眠ると凍死を免れない橋の下で彼は3年間生活し姿を消しました。そして2年後、1通の手紙が届きました。感謝の言葉と「今は郵便配達員をして暮らしている」とありました。彼は海兵隊員としてベトナムに従軍した兵士であったことも書かれていました。私が感動を持った最初のホームレスです。

路上生活者救済施設、デンバーレスキューミッションは100年を超える歴史があります。この団体に貢献して14年目となった事を大変誇りに思っています。
これまで日本館の仲間達と3万6000食をこえる食事をサービスし、ホームレスの人々との出会いの中で多くの事を学びました。

人生は誰しもが寄り道をしたり立ち止まったり、道を迷ったりします。人生を真っ直ぐ歩んだ者には無駄に思える事かも知れませんが、そういった人生を乗り越えた人の言葉は、どんな宗教者、哲学者、精神学者ましてや武道家などよりも真実が含まれています。私にとってミッションはそんな人が潜んでいるところでもあり、自己の人生を考える場でも有ります。

最近は思いもかけない場所で声を掛けられる事が多くなりました。「お前はミッションで中華料理作っていたろう、俺は5年前に世話になった」と言っていきなり抱き付かれたりします。社会復帰を果たした人との再会は本当に嬉しいものです。
私は知っています。あなた達の中には日本語を流暢に話したり、クラシックをピアノで見事に弾いたり、あるいはコンピューターを自在に使い情報の最先端にいる人など、多彩な才能を持つ人がいる事を。長い人生、数年間の寄り道など瞬きの様なもの。いつかは笑って過去を語れる日が来る事をいつも祈っています。

氷点下となる日が続くデンバーの冬、頑張って、頑張って、春まで頑張って。
私には貴方の苦しみ、辛さ、悩み、寂しさを分かち合える事は出来ないけど、今年も日本館生一同と腹いっぱいの食事を提供したいと思います。

行動を起こすのは一人でも出来るけど、持続するには多くの人々の支えが必要です。このプロジェクトの機会を与えてくれているデンバーレスキューミッション、活動を支えてくれている日本館生一同に心から感謝いたします。
                     

                        平成16年1月18日記
日本館 館長 本間 学
ミッションにて

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