武道は人間が創始したのであって、武道が人間を創始したのでは
ありません。私たちにとって有意義な武道とは、私たちによって創られていくものと考えております。武道は過去の歴史において幾度もその姿を変えてきました。武道の解釈を歪め、軍人教育に結びつけ、多くの命を失なったのは、つい最近の事です。
私ども日本館は、開祖植芝盛平が人類愛善を求めて創始した武道、合気道をどの様に社会に反映させていくか、どの様に実践していくか、生きた合気道の追求をしている、いわば実践合気道の場です。道場に於ける稽古はその活動を支える
潤滑油です。
現代に於ける武道は閉ざされたミステリアスなものではなく、コミニティーと一体となり受け入られるものでなければなりません。ともすると、組織や運営規則が優先し、
開祖が残した莫大なテーマを探求する隙間のない道場や指導者が 組織の上に稽古着を着ている例がみられます。しかし、合気道は土から産まれたものであって、決して大学の研究室で創られたものではないのは、開祖の生涯を振り返れば明白です。
日本館合気道は1976年より組織に拘らない,個人道場として現在に至っており、常時350人前後のメンバーが毎日の稽古のほかに幅広いコミ二ティー活動、つまり土に返った合気道の実践を行なっております。
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館長であり日本館創設者の本間学先生は1963年より稽古をはじめ、1966年には茨城県岩間の里で生活していた、合気道開祖、植芝盛平翁に岩間での内弟子を許されました。僅かにして
開祖が病気治療の為、東京の本部に移った後もお使いした経歴をもちます。1999年、当時の茨城道場長、故斎藤守弘師範より「開祖に許された岩間最後の内弟子」と全米講習会等で度々紹介されております。開祖の入神後、日本国内を修行のため放浪、米軍三沢基地格闘技指導員をへて、その後渡米、各地を訪れた後に、現在地デンバーに定住、日本館を創設しました。この時の色々な体験から現在のユニークな道場運営がうまれました。「なぜ、アル中や薬物中毒の怠け者に13年間も食事の世話をしているのか?」との質問に「彼らを常に我々の生活を基にして判断してはならない、私達がそうであったように彼らも同じ道を歩いている。そこを通り抜けるまで少し時間が掛かっているだけの事。どれだけ時間がかかるか解らないけど彼らに前向きの心さえあれば必ず立ち直る事が出来る。「貴方の再起を祈っていますよ、腹へったろう 頑張ろうな」と行動で示してやる。実は自分自身えの呼びかけでもありました。私自身色々な人々に救われた。とくにアメリカでの生活は河原の雑草を食べて凌いだ時すらある。そのときに手を差し伸べてくれた人達のお陰で今私はある。」と答えている事からもわかります。 |
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既成の合気道団体には加盟しては居りませんが、それは自由な立場で 合気道を考えたいが為であり、開祖植芝盛平翁及び植芝家に対する敬意はなんら変わる事はありません。むしろ、独立道場としての自由な雰囲気が幸となり、多くの流派、団体の指導者が訪れる間口の広い道場となっております。
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