館長コラム◆◆  

始めに
 私はこれまで二編の「開祖の残した言葉」を書きました。この記録は3年前の春に私が実家に帰省したおり、当時頻繁に岩間の私を訪ねて来ていた姉の勧めで書いていた日記や手紙、他の古い写真、開祖の反古紙、毛の短くなった豚毛の歯ブラシなど全てが姉によって残されているのが解りました。日記には開祖や奥様の言動、素朴な質問や疑問がそのまま書かれていましたが、まだ10代の記録であり現在の年齢になって始めて解る事も多く有ります。反古紙は開祖が畳幅に一気に筆をおき、気が入らないと一文字も書き終えないで紙を取り替えるときがあり、書き損じのない部分は再利用し書き損じは焚き付けにしたのですが、その書き損じを燃やさないで大切に寄せていた記憶が鮮明に思い出され、当時の私にとっては棄てるべき歯ブラシなどもアイドル的コレクションだったのだろう。
 「開祖の残した言葉」はこれらの日記や手紙、私の記憶をまとめたものです。非常に開祖にとってプライベートな事柄も記録していましたが、合気道家にとってポジティブな記録のみ書き上げています。


師弟の心
「自分の道場を開く奴は馬鹿や」
開祖の残した言葉 V

 


 届けられた郵便物を開き開祖の前で代読するのはお傍付きの仕事であった。
菊野が読んだ手紙を聞き終わり、微笑みながら語った言葉「自分の道場を開く奴は馬鹿や」を今でも印象深く記憶している。実際は紀州弁であったが私には上手く再現できない。
 本題に入る前に今回は前の二編に続き、開祖のお休み前の寛ぎの様子などを紹介したいと思う。
 代読とは開祖のお傍で開祖に代わって手紙、新聞、本などを読む事である。テレビ、ラジオの無かった岩間での生活で新聞は菊野が代読していた。私には難しくて読めなかったのである。しかし開祖が晩年毎晩のように親しんでいた大本教の「霊界物語」は漢字には全て仮名がついていたので私にも読めた。開祖が床に入られると私が霊界物語を代読し、菊野が「御身足摩り」をする。これが大変で、開祖は目を閉じておられるので、いつ止めて良いのか判断がつかない。目安は開祖の口元が緩んだ頃と判断していたが当たらない事もあって慌てて続けたときもあった。ある日、菊野が御身足摩りを変わってくれという。御身足摩りは開祖の足元の横に正座し、なるべく風が入らないよう布団下から両手を入れて膝から下をお揉みするのだが、背の高かった私にはとても窮屈な姿勢で苦手であった。しかし私は差し出された菊野の両手を見て驚いた。その両指はアカギレで真っ赤に腫れていたのである。毎日の洗濯、拭き掃除、家事などでの水仕事で指先は割れて痛々しい状態であった。開祖の皮膚に直接触れるということは無く、股引(ももひき)という下着の上か素足にタオルを掛けてその上からではあったが、痛みには耐える事が出来なかったのだろう。室内には小さな石油ストーブが有ったが菊野の部屋には暖房は一切無く、流しに小さな湯沸し器はあったが温かいお湯で掃除するなど考えられない時代であった。随分辛かったろうと思う。
 開祖が稽古にお出ましのときは、お傍付きも稽古に出るのだが、肩取りなどをやったら硬い稽古着で指の割れ目が更に大きくなり血がにじんでいた。今では塗り薬やローションが直ぐに手に入るが、当時の菊野には贅沢品であったと思う。僅かの給金のうち実家にも送金していると話していた。
 開祖は当時としてはまだ珍しい電気毛布を使用したときがあった。しかし体がムズムズ痒いと訴える事が多く、原因がわからず困っていたが「電気毛布だ」という事になり使用を止め湯たんぽに戻った。しかし暖めるのには限度があり菊野が考え出したのが開祖のお休み前に全裸となってお床に入り暖める事であった。特に開祖がお風呂に入られた夜は大変であった。岩間の稽古は夜7時からで食事の後である。ご入浴の日は稽古にはお出ましにならず、夕方の早い時間と決まっていた。私が風呂屋の外の焚き口で薪の出し入れを調節しながら、程よい温度に沸かすのだが、沸いたばかりの熱いお湯は入浴できる温度では有るがピリピリと身体に刺さるように感じるため「湯揉み」をする。私が風呂にかぶせる板でかき混ぜるのだが、それでも開祖は「つよいのう」といって満足されなかった。そこで始まったのが「二番湯」を作る事であった。二番湯とは、最初に誰かが入ってお湯を柔らかくする事である。菊野はその役をするのだがシモヤケの手や足を熱いお湯につけるのは大変だと笑いながら云っていたが、今考えると随分辛かったのだろうと思う。菊野の仕事はそれだけではない、開祖がお湯に入り私は御背中を洗っているときには開祖のお床に入って暖めているのである。そういった我々の苦労の甲斐もなく、開祖のお体のムズ痒さはとまる事は無かった。今考えてみれば肝臓病の自覚症状であったのかもしれない。   
 ご入浴であるが「五右衛門風呂」と云う小さな一人用の大きな釜のようなお風呂にしばらく入られたあとに御背中を洗わせていただく、開祖の御背中には肩甲骨のあたりから老婆の乳房のように昔は筋肉隆々としていたのであろう痕跡が下がっていた。御背中は下から上に良く絞ったタオルで擦るのだが、その垂れ下がった筋肉を押さえて伸ばしながらでないと一緒に動いてしまい擦る事はできないほどであった。
 入浴などのない時は5時頃に夕食をとられた。御食事は大変質素であり、菊野が食材を買いに行ったという記憶は無い。畑で収穫された僅かの野菜と門下生が送ってくる上質のちりめん雑魚などをおかずにお粥を少し召し上がるだけであった。合気神社の月並み祭では餅を搗くため、お粥に餅を入れて「特別の日」とした。食卓に欠かせなかったのは「黒酢」と「御神酒」であり、それぞれ盃に一杯ずつ、全てのおかずを漬して召し上がった。何処からであったか記憶に無いが「辛子レンコン」が届くととても喜ばれた。新巻の鮭の塩を抜いて茹でたジャガイモと混ぜて丸めて蒸し揚げる料理もお好きであった。意外であったのはライスカレー(当時はカレーライスとは云わなかった)で、殆ど具の入っていないカレーを「御通じが良くなる」と云ってときどき召し上がった。私や菊野には「若いから肉を食べなくては」といって鶏肉を買って入れるように話されるのだがさすがにこれは出来なかった。
 お体の調子が良くない時は御食事も進まないのですが、奥様が「滋養に成るから食べよし」と厳しくおっしゃられて、膳に着かれるのですがご自分の食べ物を奥様のお皿につまんで乗せ「おまはん食べよし」といって逃げるのだが、「おまはんこそ食べよし」と子供の様なやり取りが続き、とても微笑ましい記憶が残っている。
 菊野も私もまだ若く、80歳も半ば前後の老夫婦の御世話など全く知らず、事あるたびに故斎藤守弘師範のご自宅に駆け込んで師範や奥様の助言を仰ぐ日が続いた。開祖の老人特有の行動が我々の手に負えないときは守弘師範の奥様がお出でになり、訛りの強い茨城弁で「翁先生どうしたの!」と怖い看護婦長のような結構強い言葉で語りかけると一瞬にして収まり、その後奥様が優しく語りかけると大変なご機嫌になって甘えるような雰囲気となった。今考えると御寂しく、誰かの愛を求めていたのかもしれない。
 故斎藤守弘師範が日本館の講習会でデンバーにお出ましのとき、宿泊された私の家で会食があった。守弘師範と同じく以前は国鉄に勤めていた関係で懇意となり、酒友でもあった故川辺茂秋田県支部長(当時)や合気道ジャーナル誌のスタンレー・プラニン氏の前で「俺は開祖の弟子だから何でもやったし、段位も貰った。しかし俺の婆さんは弟子でもないのに日夜時間に関係なく開祖に仕えた、しかし東京の植芝家から婆さんには何にもない。姥捨て山に棄てたとでも思っていたんだろう」と話されたときがある。確かに息子や孫が会いに来たという記憶は無い。伝記などでは開祖の希望でお亡くなりになるまで本部道場で過されたとある。確かに二階中道場や病状が悪化されてからはご臨終の場となった小さな日本間で療養生活をされ事実ではあるが、開祖の自室は道場敷地内の長男である吉祥丸道主の自宅にあり、お元気な頃から「様々な事情」を訴えられてその自室には立ち寄らなかった。「様々な事情」は岩間で毎夜のように聞いた事であるが、余りにも植芝家ご家族の内情であり記録しない事にする。



 思い出は尽きないが本題に入ろう。開祖が菊野の代読を聞いて「自分の道場を持つ奴は馬鹿や」の主旨の言葉を云ったのはなぜだったろうか。
 合気会の傘下道場で植芝家もしくは合気会で資金を出して建築したり、その運営資金を出した道場は世界中に存在するだろうか。岩間の合気神社直轄道場のような直轄道場は過去に幾つかあったが、これすら有志の資金援助あっての事であろう。ほぼ全ての個人道場はその持ち主の資金によって建てられ合気会傘下となっている。借り物でもその手続きや経営、運営はすべて忠実な門下生による。それはネズミを捕らえた猫が飼い主の前に運び胸を張るのとよく似ている。ネズミが大きければ大きいほど飼い主の寵愛も大きい。
 開祖に報告できるほどの人物からの手紙であったので恐らくは地方のかなりの人物からだとは思うが、その人物が報告した道場開設の手紙を「馬鹿や」とは一体どんなつもりだったのだろうか。

 日本では人生で怖いものが三つあるとよく言われた。それは地震、雷、火事、その次に位置するのが親爺である。最近では親爺もだいぶ弱くなったが(それとも女性が強くなったのか)、古い家庭ではその怖い親爺が今でも自分の子供を他人に紹介したりする時は「私の家の馬鹿息子」と紹介する時がある。何らかの事で他人の世話になるときなど「私の馬鹿息子ですがどうぞ宜しくお願いします」と表現する。米国などで他人に紹介する時にさえ「マイ ワンダフル サン」とか「パーフェクト サン」などと紹介する習慣から見れば他人の前で自分の息子を貶すなどとんでもない事であるが「不完全な事もあろうけど経験も薄い息子なのでなにとぞよろしく」という謙遜の表現である。
 それでは開祖の「馬鹿」は何を意味しているのだろう。大切なのは開祖の表情であり、話し方のトーンによって大きく異なる。菊野の代読に対しては開祖はスマイルしながら言葉を発せられた。つまりこの「馬鹿」とは「自分の道場まで開いてしまうほど爺さんの合気道を慕ってくれた。しかしこれから生徒集めや経営などで大変な苦労を掛けるのに馬鹿な奴だなー」と自分の愛弟子の良い報告に喜ぶ反面、これから苦労する事を心配しての「馬鹿」なのである。英語で言うなら「ア−ユーOK,イッツ クレージー(バッカみたい)。これからよ、苦労が待っているよ」に良く似ている。ちなみに開祖が本気に「馬鹿者」と大声で怒った時は腰が抜けるほどの迫力であり深夜の岩間で幾度も体験している。
 自分の傘下道場が増える事を喜ぶ反面、弟子の事を心配する開祖の優しい心の表現である。



私の道場である日本館の事を述べてみよう。
 私の道場はジャパンハウスカルチャーセンターと称して2年、その後日本館に改名したのだが、センターの頃からの40年余りで2万5000人以上の初心者を指導した。なかには3日で終わった者もおれば、30年以上続けている人もいる。出入りは激しいのだが総本部だけで150人前後は常に門下生登録をしている。  
 最近はデンバーやその郊外もかなり人口が増え、幾度も「道場を開きたい者はいないか」と問いかけるが日本館の古い門下生には道場を開きたいなどと希望する者は現れない。そして私自身も門下生をおだてて次から次に道場を開かせ門下生を集め昇級昇段試験料や登録料などで稼ぐ素質は持ち合わせてはいないので「そうか」で終わってしまう。
 道場を開く事は金さえあれば簡単としても、運営をしていくのは大変な事である。その大変な事を長い間一緒に日本館発展のために頑張ってくれた大切な門下生にさせる事は私にはどうしても出来ず現在に至っている。
 但し、私も知らぬ間に突然「先生」となってフェイスブックなどで道場開設を華々しく宣言する元日本館生も数人いたが、2万5000人の数にはそういった者もいて不思議ではない。むしろこういった門下生が日本館を去ると不思議と心が楽になるのは「問題のある門下生を破門にする」という最も辛く、重大な行為をしなくてすんだ安堵感からであろう。
 米国で40年間指導をしても傘下道場を一箇所も持たない私(日本館)にその価値を疑う者もいるかもしれないが、私は開祖から学んだ「門下生への深い思いやりの心」をそのまま実践しているだけである。以前は「米国では積極的にフランチャイズを展開して傘下道場希望者は受け入れてーー」と繰り返していた私の優秀なアメリカ人スタッフたちですら、今では理解したのか、それとも諦めたのか、ただ黙々と日本館の様々な事業に尽くしてくれている。誠にありがたいことである。
 開祖が云った『自分の道場を持つ奴は馬鹿や』とは開祖の膝元で修行し開祖に尽くし、また開祖も大切に育てた弟子が、独立して行く事への喜びと不安が溶け合った優しさの表現である。
 今回は「師に使える心、門下生を思う心」について書いてみた。
  
著者記―菊野(愛称キクちゃん)とは開祖に最後まで仕えた女性、 旧姓、故山本菊野さんである。
文中敬称を略した。
 


                  平成27年5月26日
                      日本館館長 本間学 記
                      

 


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