合気道開祖植芝盛平翁が最後の治療のため東京の本部道場に移られるまでの晩年を過ごした岩間道場、すでに老人性の症状が出ていた開祖を訪ねる人はまれであった。旧姓故山本菊野と私、50メートルばかり離れたところに故斉藤守弘師範ご家族が開祖、奥様のおそばで仕えた。多くの関係者がこの世を去ったなか開祖の傍にも寄れなかった者が伝記本の情報を元に開祖開祖と騒ぎ立てる。開祖の入れ歯を磨き、風呂を沸かしお身体を洗い、髭に鋏を入れ、向かい合って飯台にすわり同じ食事をいただく。お傍付きの内弟子とは私生活のお世話もする者の事で、開祖の居住しない東京の本部道場で近所の安い貸し部屋に住み本部に通って指導員の生活をした者たちが「開祖の内弟子」とはどうかと思う。吉祥丸二代目道主が雇い入れた指導者候補生の表現がふさわしいと思う。給料をもらう内弟子など存在しない。
深夜徘徊する開祖を静かに追い、やっと戻った部屋の中で東京の方向に向かって正座し、合気会に纏わるさまざまな心情を露骨に発していた開祖。5−10分間の叫びは年老いた武道家の孤独と不安の叫びであった。まったく事情が分からずただ平伏する私と菊野さんに「そうじゃろ」「わしゃかなわん」などと同意を求めるように鋭い目であったり悲壮な表情で訴え、答える事など何も出来なかったが当時名指しされた人々の名前をなぜか今でも明確に記憶している。特に開祖御入神後に起きた合気会分裂騒ぎに関して開祖がすでにこの頃から「結果」を予測しており、別れた人物の名を叫んでは様々な指摘を幾度もされていた。
こういった開祖の行動を伝記などでは「突然神が宿った」などと神格化し、それを信じている合気道家に驚かされる。単に老人性の病気である。「開祖が居室で突然大声を出すと部屋の障子が破けんばかりに響いた」とある。晩年新築された居室の障子に張って有ったのは和紙の障子紙ではなく、当時流行していた破けないプラスチックが含まれた偽紙で、傍で手を打っただけでも障子そのものが反響するほどであった。障子の響きまで開祖の力と解釈してしまう。「正座する開祖の背を指圧すると押しただけで押し返される、その気は驚くものが発せられた」ともある。日本間の畳の敷き方は歩く人がなるべく畳の目に直角に歩かないように敷かれている。当然開祖は正面上座に座っているので畳の目に沿って座っている、その後ろに座って押しても少し押し返されるだけで体ごと畳の上を滑って後に下がってしまうだけの事である。特に背の高かった私は正座しても開祖の頭を超えてしまう。その位置で開祖の背を直角に両指で押しても、肩なら良いとして腰のほうとなったら少し押しただけで自分の力で押し返されてしまう。開祖のエピソードの多くは事実が脚色されて別物と成って合気道家に伝わり、すでにボタンを掛け違った指導者たちが開祖を神格化して己の印象を高めようとしているのは外から見ていると傑作でも有る。
しからば伝えられる真実は無いのかと云うと幾らでもある。岩間合気神社の月並み祭の朝、若い弟子たちが容易に動かせない石臼を一人で移動させたり、雑踏の東京の上野駅を誰にもぶつからずお供が追いつかないような速さで歩いたなど、私自身も体験した驚きもある。そして開祖とお金のことである。
開祖は私が知る限り晩年はお金を持たず、財布も無かった。お金はお供が持ち支払いもすべてした。突然東京本部に行くと言い出し奥様との予算折衝が始まる。立ち寄り先とか車代とかを奥様に求めると奥様は箪笥の中から最初は一万円くらいを渡し、それでは少ないとの二度目の交渉を受けてもう一万円渡す。一度に多く渡すと必ず二度目の交渉がある事を奥様は十分に知ってのことである。奥様は非常に倹約家であった。丁度その交渉時に私を訪ねて来ていた姉が小声で私に「これで足りるの?」と驚いていたら奥様がさらに5千円追加したのを見て「武道家の大先生を完全に操っている」と感心しきり。期待していた以上に手に入った5千円に満面の笑みを浮かべた開祖。とても微笑ましいひと時を記憶している。このお金で、東京までの列車代金やタクシー代を賄い、上野の大本教本苑に立ち寄り、下足番から事務の女の子までチップを気前よく配り、神殿に玉串を供えると本部道場までのタクシー代すら無くなってしまう。何しろ電車で乗り合わせた母娘にみかんや飴を買い与えたりの気風のよさ、すでに東京本苑でお金を使い果たしたのを知ってか知らずか開祖は堂々とタクシーに乗り込み、道不案内な田舎出の私に代わって実に丁寧な言葉で運転手に道を告げながら本部着、私はすばやく事務局に向かいタクシー代を払ってもらう有様。「だめじゃないか翁先生を担保に置いてきたら」としかられる始末。お金にはまったく執着無く気前がよく、結局私のわずかな手持ちで補充し、私自身が岩間に戻る金が無くなって道場近くで食堂をやっていた同郷の方から借りた思い出もある。
当時、まれではあるが開祖のご機嫌伺いの訪問者があった。ご機嫌伺いとは訪問する人物に直接あって行うものであるが、ほとんどの訪問者は私や菊野さんにまずは開祖のご機嫌を聞いてからどうするか判断するのが普通であり、もしご機嫌が悪い日は持参した土産やお神酒と奉納金を静かに道場神殿に供えて引き上げていくのが常であった。たとえ面会がかなったとしても持参したすべての金品は道場神殿に奉納され開祖が直接受け取ることは無かった。掛け軸等の揮毫謝礼金も神殿に供えられ、門下生の束脩(そくしゅう)も同じようにされた。
稽古の謝礼を束脩といい、現在のように月謝や会費といった定期的に支払うべき指導料ではなく、金銭的に都合の付く者が志として奉納していた。物納も当たり前のことで、農海産物や酒なども奉納されていた。現在では月謝、指導料,、会費などは常識化し、地方の合気道家からの筆頭師範に対する物納の習慣も健在である。ただし開祖当時の物納は単純に指導に関しての感謝の気持ちであったものが、現在では高額商品が保冷車で直接指導者の自宅に届けられる「含みのある」物納に変わった。
正面に奉納された玉串などの奉納品は稽古終了後に菊野さんが記録し開祖に報告、現金は奥様が管理していた。「神さんにご奉公しておる」として指導料を受け取らなかった岩間での開祖は、門下生が道場の補修代などさまざまな理由を作って集めたお金を神殿に供えたと故斉藤守弘師範が話していた。こうする事によって誰が幾ら金を出したかは解らず、開祖としても門下生の束脩の上下を感じる事もなく非常に平等な評価が可能であった。現代感覚から見ても開祖のマネージメントは素晴しいと思う。
私も実家から毎月送られてくる1万円の半分を正面に玉串として奉納したが
「爺さんはもういらん」(紀州弁であったが私には再現できない)と云って返してくれ、その後は日常用品のちり紙や洗剤などを買い足して補充するのに使った。もちろん東京本部行きの「非常時金」として大いに役に立った。「あの頃は開祖も懐ろが寂しくてな、本間君も大変だったろう」20年も過ぎた頃故斉藤守弘師範が語っていたが「爺さんはもういらん」と話された頃、開祖は一番お金に不自由していた事など当時の私には知るよしもなかった。
アジアに広く信徒のある上部座席仏教は信徒からの寄進に対して決して礼を言わない。見返りの言葉は無い。寄進の見返りを求める心を抱かせるのは罪であるという考えらしい。アジアでの多くの亜範活動において私もこの事を知らず困惑した頃があった。受けとった寄進は仏に対するものであり自分はその受け渡しをしただけという事である。まさに開祖の心境と同じである。
さてここまでは開祖のエピソード、それでは現在の合気道界に目を向けてみよう。まずは先に書いた「米櫃(こめびつ)の心配をして合気の指導はしてはいけない」を読んでから先に進んで戴きたい。
http://www.nippon-kan.org/senseis_articles/14/do-not-teach-budo.html
どんな立派な合気道指導者でもお金が無くては道場運営どころか食べても行けないし彼女とのデートも出来ない。既婚者なら奥さんの収入に頼っての生活となる。現にそういった事例は事欠かない。地方の合気道関係者幹部に比較的裕福な生活を送る人が多いが、それは合気道の道場運営からでなく家業によるところが大きい。
試合形式のある他武道はその国の政府所轄から選手育成資金などの援助や大企業スポンサーなどが支援するが合気道にはこれが無い。
海外の合気道には独自の試合形式を作りスポーツ省などに登録し僅かばかりの援助を受けていたり、フィギュアスケートのように得点審査制の部門も作りスポンサーを握っている例もあるが、原則的に合気道はトロフィーや賞金をもらう事も、夜のプライムニュースのスポーツコーナーに出る事もなく、その収入源は月謝と昇級昇段試験、昇級昇段資格取得資格として開く講習会収入でしかない。そこに落とし穴が存在する。
経営と収入増を求め安易に段位を乱発、結果、袴を前後に着けたり赤い袴を着ける6段位7段位の大先生が世界には存在する事態になっている。現在の合気道界の段位とは、初段から7段ほどの合気道家を20人ほど合同で稽古させてこの人々と全く面識の無い合気道家に「右の初段から左の7段まで順に並べて下さい」とやらせたら7段が一番右であったり二段が左端であったりとなり得る、基準があっても名ばかりの不明朗段位が当然の様になっているのが現実である。
日本人高段者の試験を受けて合気会三段に受かった人が、その国の合気道連盟の試験を受けて受からなかったという笑い話さえある。
開祖が一番嫌った「金で動く合気道」のほんの一例である。ビデオ審査とはあきれた事で、電話で気を送るという類とまったく同じ行為までがまかり通っている。
門下生として道場で稽古するだけならそれほどの支出ではないが自分の道場を持つとすれば大変な金がかかる。金がかかればそれを回収しようというのが当然である。道場が自身の建物であれば維持費としてさまざまな費用がかかる。広告費、電話料金はもちろん、冠婚葬祭の費用まで何かと必要とされる。借り物であれば家賃、コミュ二ティー施設であればパーセンテージを支払なくてはならない。ましてや上部団体傘下ともなれば当然上納金が課せられる。道場や小さなクラスを開いた頃は生徒も少なく維持していくのは大変な事である。だがこれらの必要経費自体は決して合気道指導の代価ではない。合気道という武道を稽古するための器の代価であって合気道の指導価値とはまったく別のことである。
本来合気道指導に価格をつけるとなると実に難しい。それはピカソの絵に何億の金を惜しまない人もおれば「何じゃこれ」と物置で見つけた絵をピカソとは知らずノミの市に出す人もいるのと似ている。有って無いようなものである。もともと無いのであるから規制も無い。そこが問題である。
アメリカにおいても地価の高いニューヨークあたりの道場は狭く一度に
多くの人数が稽古できず週二回程度の稽古で150ドル以上、平均月収の高い西部カリフォルニアでも120ドル以上は常識価格となっている。それは指導者のレベルや生徒数にかかわらず経費から押し出された「合気道を稽古する器の価格」でしかない。東南アジアのすばらしい日本人高段指導者の道場で毎日来ても10ドルというのもこの地域の経済事情から割り出された合気道を稽古するための器の価格である。
しかし現実は、指導者の多くはそうは考えず「多額の投資をし、全ての講習会にも出て、段位も取得しての技術指導に対する当然の代価」と慢心に至っている。今一度、「米櫃(こめびつ)の心配をして合気の指導はしてはいけない」つまり「生活の糧を得るための合気道指導ではならない」という事を明確に実行されていた開祖の金銭に対する考え方を熟慮してみる必要がある。開祖の技を論じる前に、合気道は愛だ平和だと絶叫する前にこの極めて現実的な開祖の生き方を学ぶ必要が有るのではないか。
さまざまな国の合気道家と交流を深めその現実を知るとき、試合形式も無く(それが大いなる合気道の魅力とはいえ)国楊を上げる世界大会参加や企業名を高める選手などの存在の無い合気道は政府からの補助金も無く(ただし財団法人合気会は除く)大変な状態で合気道を普及維持している。特に開発途上国での道場運営はまことに厳しく、まして昇段に必要とする上部団体などへの納入金は数ヶ月分の個人収入に相当する地域すらあり、指導者が立て替えて支払い後日月賦支払いなどというケースもざらに存在する。
途上国での合気道普及はその指導者の善意と経済力によって支えられているといっても過言ではない。反面、経済力をバックに袴も着けれないような者が合気道界を牛耳ることにもなっている。合気道家諸君は十分注意してこういう人物を別格と捉えておく事が必要であろう。
「それじゃ、あんたは」と当然の質問に答える事にする。私はこれまで昇級、昇段などにおいて特定の金額を決めて門下生に求めた時はない。試験もないし当然試験料なども無い。15年ほど前からはクリスマスや新年、誕生日などの門下生からのドーネーションやプレゼント、カードは一切受け取らず「寄付をされるなら道場内の寄付箱に無記名で入れて下さい。AHAN活動に使います」と手紙を添えて謝辞することを事前に門下生に通告している。海外等に指導に呼ばれた時も指導料を受け取ったときは一度も無い。それでは運営上困るといわれた場合は一度受け取ってその地域の必要としている施設等に全額寄付をしている。現在の日本館道場施設は土地建物すべて支払い済みであり光熱費や電話代なの維持費以外をホームレス支援や各国の亜範活動に回している。道場の雨漏り修繕で銀行から融資を受けようとしたら会計士から預金残高が少なくて融資は無理と告げられ「もっと預貯金に励め」といわれる始末である。
それでも今年からは初心者クラスを半額としている。なぜ?、つまり道場という器に必要とする経費出費が下がったからである。普通はその下がった経費が収入に加算されていくのだが、それを生徒に還元しようと考えたのである。
初心者クラスは週二回1時間15分のクラスが6週間で12クラス。55ドルの受講費を半額27ドルにしたのである。一般門下生の受講料は週10クラス全部に出ても月額50ドル、過去30年間変わっていない。他の道場ではどのようなものか知らないが、日本館道場が評価されるべき大きな事実は「この破格に安い会費でも運営でき、さらに亜範活動として多くの資金を使っている」という事である。しかもどこの大きな組織にも所属しない独立道場が行っている事である。
生徒数が安定し道場収入も増え経費も削減できる今日の状態になったとき、少しでも多くの方々に合気道を楽しんでもらうために初心者クラスの受講料半額を実行した。開祖が云った「爺さんはもういらん」との心境に至るまではしばらくかかるが、それまでは私自身がDOMOレストランのキッチンで調理をし、皿を洗い、庭の手入れをし、詰まったトイレの掃除をする人生が続く事を覚悟での事である。
「合気道と金」に関して多くの国々の心ある指導者が疑問を持ちながらも自己の将来の昇段を考慮して心に納めている。武道家は所詮一代一人、ある国の独裁者のように何代も継続するには何らかの「見返り」が相互に無くては持続不可能である。合気道においてそれは「段位」や「役職」である。高い昇段は「随意」といわれる昇段寄付金との交換でもある。こういう事をしていればやがて合気道そのものの質が落ちる事は明白である。もちろん、過去のコラムでも幾度も明記しているように真に感動する合気道家は実に多い。しかしこういった方々は人格者ゆえに自分の意見を述べるどころか実に慎ましい行動をとるため改善となる意見を控えてしまう。
今回は「合気道と金」というタブーに触れたが、海外の合気道界の現状を見れば多くの国が国独自の合気道協会や連盟を組織し、独自の段位認定制度で昇段者が生まれ、指導者認定証が発行されている。日本の上部団体との関係は名ばかりで、多くはその国の段位にとどまり、わずかに裕福な者だけが日本の上部団体の試験を受けるという「二重運営」がまかり通っている。たまに訪問する日本の上部団体の指導者は歓迎と接待の輪に包まれ、そういった事実を確認できないか謝礼の厚さで黙り込んでいるとしか思えない。
「爺さんはもういらん」とは先の寿命が無いからという事ではない。将来の合気会の行き着く先を知っているかのように開祖自ら「金銭にまみれない合気道」を実行していたのだろう。質素倹約、慎ましい日常生活をお傍で見た者が知る開祖悟りの境地であったのかもしれない。
名を残したある禅師が泥棒に全部持っていかれて「盗人が置き忘れたる窓の月」城主から好条件で城中入りを求められ「炊くだけは風が落ち葉を持ってくる」の名句を残しているが、岩間で武農一如の生活をしていた開祖の完成された心境を重ねる事が出来る。
上部団体などに所属しなくとも、充分に合気道の修行は可能であり道場運営も可能である。米櫃の米を門下生に求めなければ必ずそれは達成できる。私にとって合気道は生活の源ではあるが生活の糧とは思っていない。独立道場として頑張っておられる方々、あるいはこれからという方々に、傘下道場は持たず自己道場一つを守り、それであって数え切れない世界の合気道場と友好関係を持つに至った米国生活40年間の経験から開祖を振り返ってみた。
平成27年2月20日
亜範日本館
館長 本間学 記
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