館長コラム◆◆  

■白い稽古着
 -チェコ指導で感じた事-

確か20年位前までは稽古着は白くありませんでした。要するに無漂白の麻色の物でした。今は捜すのも大変です。昔、などと言うと大袈裟かもしれませんが、白い稽古着は先生や厳しい先輩の象徴でした。白くなるのは長い間いつも洗うからで最初から白いのではありませんでした。やっと白くなった頃、襟元が破けてくるのですがそれも貫禄の一つでした。肩の当たりは受身で磨り減り背中の辺りも危なくなってある日の入り身投げで別れの時が来るのでした。もちろん其の頃パンツの方はと云うと、膝はパックリと口が開き、袴さえ着ければ見えないとばかり引き裂いて縫いもせずバサバサにして置くのが何となく正統でした。もっともその袴さえ膝は手縫いの雑巾の様になっていましたが。それでも我が身の変わりにその身を削った稽古着が愛らしく捨てずに取って置いたり、裏に手ぬぐいを当てたりして別れを暫くのばす者もいました。

亡くなった斎藤守弘師範が興に乗ると歌った「白い稽古着ダテには着けぬ、魔よけ、虫除け、女よけ」の歌詞の中には白い稽古着を着る者の誇りと自信の意味が含まれていて、稽古着の白さは古くから稽古者にとって意味のあるものでした。

今日多くの合気道家はこの喜び、感激、誇り、別れの時の複雑な心境を感ずる事が出来なくなりました。

現在はすぐに白い稽古着が手に入ります。しかも大した変わり栄えもしない詰らない事にもったい付けた高級稽古着すら存在します。

チェコに講習会指導に行って来ました。そこでとても素晴らしい事に出会いました。昨年は木剣、杖クラスをやらなかったので気が付かなかったのです。それは壁に立掛けられた木剣杖バッグの殆どが手作りであった事です。そういえばブラジルやメキシコでもそうでした。私はなぜか感激してシャッターを押しました。そういえば昔この袋も作った事を想いだしました。木剣と杖が一緒に入る袋はなかったのです。チョット器用な人なら手縫いでも30分掛りません。自分の稽古する武器を包む物を自分で作る、この事に大きな価値がありました。米国の道場ではこの袋は既成品の60ドルから80ドルもする高いだけの個性の無いもので征服されてしまいました。



日本人が海外で日本武道を指導するという事には、今私が述べたような部分も大切なのではないのでしょうか。日本人はこういう歴史や習慣の中で生き、そういった価値観の大地から産まれ出た武道の一つが合気道である事を指導する、と言う事です。ある訪日の折の事です、道主の朝稽古を拝見しておりますと奥村繁信師範(合気道9段)が入ってこられました。稽古の皆様と親しくかつ丁寧に挨拶を交わされ、我々のところにもやってきて同じ様に挨拶してくれました。その時私はジーンと熱くなる驚きと感激をしました。それは見学者に対する丁寧な挨拶もそうでしたが師範のお召しになっていた稽古着でした。もう磨り減った襟元にはさらに当て布がされ袴の膝も丁寧に縫い込まれていました。奥村師範ほどになれば咳払い一つで業者が飛んでくる程の威力はあります。しかし其の身体にしっかり馴染んだ古い稽古着は、どんな高価な稽古着でも表現できない大切な教えを我々修行者に伝えてくれるのです。

アメリカは確かに裕福な国です。特に仕事や学業の合間に合気道の道場に通えるほどの人は金銭的にも余裕がある人々です。ましてや高級稽古用品に手を出せる人は。しかし今や其の「今日の裕福」も明日が保障されない事がアメリカ社会にも多くなってきました。突然の解雇、格下げなどが頻繁に私の生徒からも打ち明けられます。私は13年間に渡ってホームレスの方々と交流してきました。最近は高学歴、専門職の人がざらに道端に生活しています。この方々から感じるのはやはり足元が弱いという事です。ある事に優れているけど何となく薄っぺらな感じがするのです。話しを聞くと、それまでは仕事も自由に選べ収入や地位の向上を求め、夢をかなえて来たと言います。足元など見る必要も無かったそうです。そして自身が想像もしていなかったところに降りてしまい気が付くと右も左も解からない物質消費社会の谷底に居た、と語った人もいます。

磨り減った稽古着一枚から学び取れる事は沢山あります。手作りの袋を縫いながら感じ取れる事も多いのです。私は以前、現在の米国における合気道家は幼稚園の子供がプロのアメフトのギアーで固めている様なもの、と皮肉りました。そして世界各地にはボロボロのボール一個を素足で追う子供達がいて、多くの有名プレイヤーは其の中から生まれると書きました。あるモンゴル人合気道家の製縫工場の親爺は80ドルの木剣杖袋を見て驚き、自分なら100枚で1枚7ドルと云ってわざわざサンプルを作って送ってくれましたが其の精巧さは100ドル以上の価値のあるものでした。またアメリカで一振り100ドル以上もする木剣もブラジルのある道場が作っている物は俗に云う岩間スタイルの樫で、1振り20ドルで販売しています。所詮、「物質の金銭的価値」はこの程度の意味しかありません。しかし物に心を与えた時には大きな違いが生まれます。人間は物に自身の心を映し共有します。職人、芸術家などの使い慣れた道具や長い間使った台所用品に至るまでさまざまです。稽古前後に正面に奉げて木剣や杖に頭を下げるのもその表現の一つです。そうで無ければ人間は木の棒に頭を下げる不思議な動物になってしまいます。自分を磨く道具に対し、質素な心がけ、慈しむ心、大切にする心に開祖植芝盛平翁の教えを探し出す事が可能です。開祖の伝記や道歌を読み感動だけで済ましている様ではいけないと思うのです。やはり日常の生活、稽古に取り入れてこそ価値が蘇ります。

クリスマスシーズがやってきます。古いけどまだまだ使える稽古着を良く見つめてやって下さい。今買い換えようとしている金額が国によっては150人分の子供の1日の生活費となるのです。高級品に優るとも劣らないしかも30%余りも安い稽古着が各メーカーから出ています。木剣杖袋に80ドルも掛けるなら古布で自分の手で縫い、或いは縫って道友に贈るのもとても素敵な事です。余裕があれば購入するはずであった予算や差額分を近くのチャリテーにでも寄付したらたとえデザイナー稽古着でなくとも、袋の出来栄えがイマイチでもその価値は計り知れない貴方の喜びです。稽古着や袋に心が宿るのです。

チェコ共和国は僅か14年前に共産主義から現在の体制に換わりました。古い文化に基ずく自信と誇りの中で多くの人々が合気道を熱心に稽古しています。特に20代の若い人が一生懸命です。そういった門下生が手作りの木剣杖袋を担ぎありきたりのジムバックに稽古着を放り込み道場にやって来る姿を見て何故かとても爽やかな気持ちになりました。


稽古の合間に

アメリカの講習会場で同じ袋ばかり100本以上も並ぶのは業者にとっては誇りでしょうが、それは合気道家自身が大切な「慈しみの心」を忘れてしまっている事でもあります。知らないうちに奥深い「日本の教え」がもぎ取られている事に気が付いていないのがとても残念なのです。武人のマスクをつけた商人が合気道を変えています。
チェコからの帰りの機中、そんな事を考えまとめました。
                         平成15年10月15記
日本館 館長 本間 学
※この文章は英文HP用に書かれたものです。

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