館長コラム◆◆  

ホームレス シェルターより
 

12月の路上生活者食事支援サービスが20年目に入る。40才の時に始めたこの活動、まだ若く体力もあり無理が出来たころと、体力的衰えを隠せなくなって来たこの頃ではホームレスの方々に接する私の構えも大きく違ってきたような気がする。ほとんどの方は私より若いのですから。
 私自身若いころは理解できなかった彼らの事が幅広いアングルから見ることが出来るようになったと思う。しかしその事が「彼らの境遇を理解でき、彼らの立場がすべて正しい」と言うわけでもない。かなり厳しい意見も持っているが「まずは空腹を癒す」だけに徹することが私の仕事であると今日まで続けている。
 一回の食事サービスが250食前後,まれに多くて350食が過去19年間の平均であったのが本年夏ごろから増えだし10月、11月度は450食余りが必要となり、サービスも夕方2回であったのが4回に分けて行う状態となった。
12月度は300食余りになったが、これはクリスマス前最後の日曜日で多くの個人団体が市内各所で食事や物品の提供をしているため満腹状態の方が多いためで、12月度は寄付された品々やケーキ、クッキーを持ってやってくる人が多かった。ただ例年同じであるが「クリスマス後」が大変である。一般個人のサービスが急激に減るためそのしわ寄せがやってくる。「無きよりも良し」ではあるが、クリスマス前の思いつき行動よりも、多くの団体個人が僅かな量の通年支援をする事が受ける側もする側にとっても良いのではないかと思っている。
 増加した顔ぶれには路上生活者とは云いがたい「スターバックホームレス」との表現が合う方も多い。携帯を持ち歩いている方は珍しくない、会話を続けながら片手で食事のたっぷり盛られた重いステンレス製のプレートを受け取っていく。中には大きなイヤホンをつけてDVDプレーヤーで映画を見ながらの食事をする者もいる。これはさすがにミッションスタッフに注意されるが「これはキリスト系の映画だ」の一言で「アーそうですか」となってしまう。
 19年間ホームレスたちと接し、最近は本物のホームレスが少なくなった気がする。おかしな表現だが「路上の哲学者」のような結構インテリな「プライドの有る」ホームレスに出会えなくなった。最近は少なくなったが15年くらい前まではベトナム帰還兵のホームレスが多くいた。ホームレスシェルターに身を寄せて深い苦悩の中で生活しやがて立ち直った方も多い。まさに模範的ホームレスであったが、そんな方が少なくなった事は残念である。
 

 昨今、門下生に限らず周囲の方々にレイオフの嵐が吹き荒れている。「アメリカ経済も深刻だ」と思う反面、米国でも五指に入るであろうデンバーの高級寿司レストランは200席余りありながら待たずに座れるときがないほどの盛況である。一晩2回転、3回転は普通の様である
 高級車で乗りつける中高年もいるが客層は圧倒的に35歳前後の方たちである。一握り12ドル以上もする大トロが大皿いっぱいに盛られカウンターでチビチビ飲っている私の頭越しにウエイターたちが忙しく運んでいく。寒空に暮らす人々とは別世界であり、同じ町に存在する大きな格差に驚く。
 この店の客とシェルターの方たちの年齢から見ると、どうやら不運な宣告をされる方は40歳なかば以上の、多くは家族を持ち、教育、医療、家や車の支払いなど一番支出の多い時期の方たちであるようだ。それなりの会社に正規に勤めていた方は失業保険や蓄えでなんとか支える事は出来ようが、そういった雇用関係に無かった方には深刻な状況の人も多いと思う。とくに不法滞在しながらも米国経済の底支えをしていた近隣諸国からの方々がまともに煽りを食っている。   
 失業者増の調整を不法移民追放で対処しても彼らの生み出す経済効果も失うわけで、たとえ追放したところで広大な農地でレタスを収穫する仕事を大学を卒業した米国の若者がするだろうか。難しい問題だがこの部分を忘れてはならないと思う。祖国に帰る金も無く自暴自棄に陥る者もいることであろうしこれらを取り締まる費用も大きい事だろう。今後シェルターを訪れる人々は益々増える可能性も考えておかなければならない。なぜならこういった方々が圧倒的に多いからである。
 
 今日に至って予期せぬ宣告に対応できずにシェルターに駆け込んだ40歳なかばを過ぎた、ついこの前まで普通のアメリカ人として生活していた方々は「プロ」の方たちと違いもっと厳しい状況にあると思う。どこのビルのどこから温風が出ていて暖かく眠れるとか、どこのレストランの裏のゴミ箱には結構気の効いた残飯があるなど知りたくもない現実に突きあたる。
 経営者側から見れば若くてハイテク知識が豊富しかも給与も安く抑えられるとくれば、いつもコンピューターの操作を若い者に尋ね、社会の流れにも鈍感なしかも高い給与の中間管理職には去ってもらおうとするのは理解できないわけではないが、米国は他国と比べて「長い経験」と言うものに対する価値観が非常に低くいのではないかと感じることが多い。人材は生産効率や、賃金だけではないはずだ。ネット上で得たうわべの知識は直ぐに身につくが、自己の経験の中から知識や経験を掴み取った者との隔たりの大きさは比較にならない。
 多くの国々を訪れた経験から申し上げれば、今後重要なビジネス交渉を宗教や習慣の異なる国々と交わしていくには、現在のネットライフ中心の、しかも人間との直接交渉経験の少ない若者集団では太刀打ちできないと感じている。まずお茶を飲み、家族の話をしそれからのビジネス交渉、そういったビジネス習慣が重きをなす国々も多い中で重要な役目をはたすのは50歳代の重厚な常識、人生経験をもとに対人交渉術のできるベテランの方々の蓄積経験であり無視する事はできない。今そのベテランたちが寒風にあたっている。
 人間抜きでは通じない国々はまだまだ存在する。中国、アラブ、中東。歴史が深く長く、若い者を扱う懐は深く、手が届きそうでも簡単には手を届くことを許さない国々は多い。若い優秀な方であったとしても、ネットだけの知識では通らない事柄も多い事をもっと自覚すべきである。


12月も過ぎた数日間日本で過した。年に数回帰国しているが著しく目に付く変化が携帯電話である。その驚きは機能やサービスの素晴らしさ以前にその普及率である。そして何よりも驚いたのは耳元に当てての通話でなく片手に持った手鏡を見るようにしている人が何と多いことか。メールのやり取りや目的地へのナビ、TVやゲーム、アニメーションEtc、あの東京の雑踏の中で、混雑する駅の中で歩きながらそれを行っている。
 一件多くの情報と接しているように見えるのだが実際は周囲の直ぐ傍の現実からの逃避でしかないように思える。電車に乗り込み10に8人位は座席に着くなり携帯に向かう。向かいながら居眠りしている者までいる。その姿は位牌を大事に手に持って亡くなった者に祈っているようでも有る。将来日本の若い方は人間同士が向き合って話し合うという事が出来なくなってしまうのではないか。人間同士のコミニケーションはメールが主体となって、文字では表現できない人間同士の感情把握が難しくなってしまうのではないか、口を使って話す数も少なくなりそのうち声が出なくなるのでは、口はより多くの食事を入れるだけの醜い形となってしまうのではないか、そういえば海外では例を見ない多くの数の人々がマスクをしているので一部の人はそうなっているのを隠しているのかもしれない。
 
 人間同士の直接対話交流は互いの顔色、声の高低、身振り手振りなどすべてを察しながらの伝達であり、電話やメールでのコミニケーションとは大きく異なる。相手の人間の全体的なものからその心を察する事は究極のコミニケーション法であり人間愛やいたわりの心の源であると思う。
 忘年会でヨレヨレになった乗客たちが駆け込む東京の終電。眠りこけても携帯を離さない逞しさ、このまま携帯の中にスーと消えて行ってしまうのではないかと恐ろしさを感じたのは私自身が呑み過ぎていただけではないと思う。
 そして電車は私の定宿のある上野駅へ、そこには多くのホームレスたちがダンボールの我が家で息を潜めていた。ここ数年の事を振り返ればはるかに多い数である。駅ビルを出た人々は携帯に目をやりながらその場を足早に去っていく。
 携帯から目をそらして彼らの事も良く眺めてほしい。この場所の近くに公園が有るがそこのベンチに寝泊りするホームレスの多くは小さな箒を持っていて毎朝立ち去るときはしっかりと掃除をしてその場を離れる事を私自身幾度も目撃している。日本にも模範的ホームレスが存在している。
 貴方より資源を無駄にせず、むしろ資源を回収しそれを生活の糧としているエコな「耐乏生活者」そう解釈するのも良いのではないか。ホームレスの名称より「耐乏生活者」が日本的で良いかもしれない。
 アメリカに限らず「経済発展文化国家」自称の国では携帯やネットの普及によって逆に何か異常な「隔たり」が起こっているような気がするのである。


寒い外で数時間待ち、やっとシェルターにあるチャペルのパイプ椅子にたどり着いた方々の後姿はコートの襟しか見えない。疲れ果て頭をたれているのである。耳が裂けんばかりのメタリックな宗教音楽と甲高い説教を聴いている者は僅かであろう。食事にありつくまでの洗礼であるなら少し気の毒でもある。「静かにその場でそのままにしてやる」ことも神の御心ではないのか。19年間で始めての私個人の提言である。
 今年も淡々とこれまでの活動を繰り返すことができた。多くの日本館ボランテアやゲストの方々の協力がそれを可能にしている。とくに自身がレイオフの立場に有りながら奉仕してくれた方も多い。心から感謝申し上げる。
 また19年間我々に貴重な体験の場を提供してくれているデンバーレスキューミッション。それは弱者の救済にとどまらず繁栄の恩恵に浸りつくす者たちに「自己を見つめるとき」を与えてくれている。多くのスタッフの努力に感謝したい。
 
 

     
日本館総本部
館長 本間 学 
平成21年12月24日 記

 




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