■海老と合気道的ファシリテーション思考
Thoughts on Shrimp, Aikido and facilitating conflict resolution |
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「貧争」という造語を思いついたときファシリテーション思考と合気道の関係の解説が大変楽になった。私の身近な体験をもとに「貧争」について書いてみたい。
私は道場と軒続きにレストランを開いている。もちろん時間のあるときは私自身キッチンに入る。夏は日本庭園のパテオを開くため200席以上が用意される。
私は今でこそ日本食屋の親爺であるが「将来日本レストランを開く」などという目的で渡米したのではなく、そういった就労経験も一切なかった。単純に「道場の見学者を呼ぶには良いかも」程度ではじめたのである。名前はDOMO,アメリカ人が良く知っている日本語の一つである。
大小150軒以上の日本レストランがデンバー市内やその近郊に店を構えているが、お陰さまでローカル紙とはいえ、開店以来13年連続でベストジャパニーズレストランのタイトルを得ているほか、全米のメデアや格付け誌でも高い評価を得ている。
繁盛店ではあるが基はといえば道場に人を集めるために始めたこの仕事、料理には自信があったが接客はもっとも不得意の分野。アメリカで武道の先生稼業を37年、ふんぞり返った私にはとくに大変な事である。「武士の商法」か「士魂商才」か試行錯誤で13年「すべては勉強のため」と耐え忍んでの現在であるが飲食業という仕事から多くを学んだ事も事実である。
まさに「歩々是道場」、自己修養は如何なるところにも満ち溢れていると昨今は割り切れるようになった。とくに接客から得たものは私が世界的に展開している多くのAHAN活動のスムーズな展開に大いに役立っている。
多くの客が出入りするレストランは人間を知り、息まくる客を静める技術を学ぶ「お茶の間ファシリテーション」の格好の場所である。
夏は学生のバイトを採用するため不慣れなミスが多くある。ある高校生バイトが数人のグループ客に水を運んでテーブルに置こうとしたグラスを倒し、その水が初老の紳士のジャケットの裾にかかってしまった。ほんの僅かである。その紳士、マネージャーを呼びつけ大いに抗議をし「それではドライヤーですぐに乾かしますので」と謝り続けるマネジャーを無視して店の壁飾りの民具の上に吊るし、食事が終わり店を出るまであれこれ文句を行って出て行った。テーブルを同じくしていた二組のカップルが「もうあの人とは二度と来ない、ごめん」とわざわざマネージャーに謝罪した事などこの紳士にはわからない。
そんなことがあって一週間あまり、同じバイトが「アイス入りのコーラを頭から」との報告。急いで客のテーブルに行ったら上着を脱ぎ平然と酒を飲んでいる。私が謝罪すると寄り添っていた女性がすかさず言った「いいのよ、この人いつも熱いんだから、ね」といってスマイルを返してくれた。彼も大きなジェスチャーでスマイル。もちろんこのカップルの食事と飲み代は心からの私の接待となったのは云うまでもない。この二つのケースにあるように突発的な物事に対するスマートな配慮が長い人生に大きな差を生み出すように思える。
レイバーデイ(勤労感謝の日)の週末、二時間待ちという混雑のデナーサービスも終わるころ客からクレームが来た。すっかり食べ終わった皿を前に「コンビネーションとして入っているはずの海老天が入っていない」という。まさかとキッチンの油切りを見ると海老天が一本残っているではないか、担当したシェフも「しまった」とあわてている。付け忘れである。さてその後が大変。「私が何も云わなければ私をだますつもりであった」と決め付けマネージャーに絡み付いてどうしようもない。「それでは飲み物と貴方の食事は無料にしましょう」という事で解決した、と思いきや、翌日またしても電話で長々と抗議、そして10日後にまたーー。ついに私が「何が欲しいのですか?海老なら100本でも200本でも差し上げます。それとも私に貴方の足でも舐めろと言うのですか?貴方を満足させてくれる日本レストランは他にあるでしょうから今後はそちらに行ってください」と電話を切った。こうゆうタイプの人にはこれでなくてはエンドがやってこない。
しかしこんな客もいる。繁盛しているレストランでは間違った注文を持っていってしまう事も珍しい事ではない。間違った注文の食事を旨そうに食べている客に「アノーそれはーー」と切り出すのは大変なことであるが隠すわけにもいかない。事実を伝えられた客はニッコリ笑って「間違ってくれてこんな美味しい食事と出会えた。日本食のメニューなんて難しいしね、こんな事がなくてはチャンスが来ない」と。もちろん食事代はフリーとなって実際に注文した食事は持ち帰りのお土産着き。この二人の客の違いも、押さえきれない貧しい心と物事をポジテブに処理する豊かな心の差によって相手に与える影響も大きく異なってくる。
店には以前「ギフト券」があった。レストランでは通常のサービスであるが二年前にやめた。有効期限を過ぎたものを持ち込んで「どうしても使いたい、もう金は払ってあるのだから」とレセプションで大騒ぎする客が余りにも多いためであった。中には有効期限を一年以上も過ぎたものや、精巧なコピーや日付けの数字ボカシなど様々な手口で迫ってくる。もちろん裏にはルールは明記してあってもそんな事は一切関係なし。混み合うダイニングの中で叫んで抗議する人、オフィスの中まで怒鳴り込む人、レセプション担当者に物を投げつける人、さらにはチャットでこの店を潰してやるとか俺は多くのTVや新聞関係者を知っていると脅しの言葉で迫る常套手段。中には自分は弁護士だといって名刺を投げつけて行った者もいた。こういった人々の求めに応じていたらルールそのもがまったく意味を成さなくなる。
ところが期限オーバーでもギフト券を使う事のできる客も沢山いる。まず「無理な話であるのはわかるけどーー」と切り出し「デスカウント程度は出来ないかなー」と穏やかに私どもと五分の高さから物言う「穏やかな」人々である。もちろん客あっての商売であり少しでも客の心を引きたいのが私どもの本心。それこそすでに金は戴いているので店自体には実害はないのだから「それではオーナーに聞いてみてーー」とオフィスに入り、しばらくして「オーナーが今回は特別と言ってましたので」とでも云えば客を喜ばせる事ぐらい簡単な事なのである。
「何とかしろ」と言われて「はい」と答える立場にないスタッフにいきなり高いところから「命令」しても益々対応が萎縮してマニュアルアンサーしか出ないのが人間らしさである。ルール上は無効となったギフト券を有効にするには豊かで穏やかな人格が大事であり、高圧的優越主義でのアプローチは反感を買うのは当然の事である。それはギフト券など言い訳に過ぎない支配関係の確認攻撃であり差別と優越主義むき出しの行為である事に本人は気がついていない。
私は今40ヶ国を超える国々をAHAN活動啓蒙合気道講習会や単にAHAN支援活動で回っている。半年以上は米国の総本部不在という事になる。私の海外活動は「エンゲージド武道イズム」思想を基本とした実践活動である。
貧困や紛争地域の方々との建設的なコミニケーションにレストランでの経験が多いに役立っている。
危険な場所だ、国だといわれている背景には我々自身の先入観が大きく左右している。ミンドナオのテロリストたちと語ったときも、バングラデッシュの極めて閉鎖的なイスラム孤児院との関係を築いたときも、まずは先入観を捨て、ジャジメントの心は持たず、ひざの高さを同じくし「双方にとって何が大切か」にフォーカスを絞り、問題となる事は後回しとし、現在の調和に価値を見つけそれを基盤として連携を築き上げることに配慮した事によって深い信頼関係を築き上げることが出来た。このような構成を組めるようになったのはレストランにおける「現場修行」にある。「人の振り見て我振り直せ」まずは自己を見つめ自己に問い正す事が相手の信頼を導く早道である。
個人や世界の平和(幸福)価値はすべてが一緒ではない。現実的には誤解や先入観による都合の良い価値判断で平和を唱えている場合が多い。ラムチョップにミントソース、プライムリブにホースラデッシュ、日本食なら寿司とわさび、焼き魚と大根おろし、この幾つかの異なった味覚を口の中に入れて複合の味を楽しむのであって、ミキサーで混ぜて一つの味にしようというのが圧倒的な現在の平和構築に思える。
もともと世界はピース(破片)の世界。多種多様な生き方を深く考えようともせず、あらゆる利害関係を背景に相手国に強制したり武力を持って脅かしたり、意味のない抜け穴だらけの制裁を課したり、メディアや国家総動員のプロパガンダで追い詰めたり、なにか私のレストランで暴れまくる方々の性格に良く似た行為が海外の貧困や紛争地域で感じることがある。
世界の貧困や紛争の解決というのは「貧争の解決」にあると思える。それは金持ち貧乏の物質的なものではなく、自己の人間的貧しさとの戦いにある。まずは自己の心に潜む貧しさ、欲望や憎しみの葛藤から開放されなければ他との和解や紛争の解決など無理な事である。「貧争解決」の造語はそこから来ている。
私は直視できないほど貧しい環境地域に現在も通い続けている。最近、その方々を貧しい、恵まれないと思う私の心自体に大きな貧しさがあった事に後悔を感じている。貧困、どん底といわれる方々の生活の中にも家族愛、近隣愛、集落愛、そして郷土愛が存在し、更に宗教的強い絆、そしてなんと云っても長い歴史とプライドが存在している。
こういった方々に自家製モラルやルールを盾に高飛車に接し、要望の通るまで徹底して相手を打ちのめすレストラン客のような態度では紛争の種を蒔くのは当然である。
皮肉にも私は「正常を逸したトラブル客」によって鍛えられ世界中の多くの方たちとの絆を持つ事が出来ることになった。レストランで出会った、穏やかで自己や社会に目覚めて寛容力のある人はその「人柄」ゆえに前には出てこない。こういった方こそ積極的に表に出てきて欲しいのである。
私は訪問国での合気道講習会において「Thoughts on Aikido; facilitating conflict resolution」というテーマで合気道を指導、講演している。
ファシリテーション思考と技術を育成する肉体的トレーニングとしては合気道が効果的であると話を切り出している。最近、アブダビ内務省での講演演武でも次のような説明をしながら演武をした。
「合気道にはなんと云っても試合がありません。技の稽古は投げて投げられ、強弱はあるにせよ常に公平であり五分の稽古です。多くの転換技が存在し、相手に尋ねるようにして臨機応変に自己の動きを相手の求めに応じて変化させ安全に導き倒す努力をする。殴る蹴るなどの防衛処置は避け、遠回りであっても少ないダメージで多くの効果を求める努力をします。受けは抵抗することなく投げの行わんとする方向を的確に判断し最小限のダメージに徹する事を考え、投げ倒そうとか、投げられないようにしようとか「勝敗」の心を捨て、二人で一つのパフォーマンスを作り上げる肉体的トレーニング(合気道の技の稽古)の積み重ねがやがては精神的な性格改善につながり、これまでにはなかったファシリテーションの発想法が生まれやすい精神性を持つようになると確信しています。とくに管理職や軍部高官には最高の武道であり多いに推薦します。もし貴方の心がハリウッドスターの合気道映画空間にあるのなら無理ですが」と自信を持って説明している。
合気道指導者として地域紛争地などに入り込んだときに感じるのは物質的貧しさよりも精神的抑制や感情抑制の貧しさ、メディア媒体の乏しい紛争地の方には已むを得ない事であるが「世界観の貧しさ」が紛争の大きな原因になっている事に気がつく。肥沃な大地が存在し、豊富な原油、希少金属を埋蔵していながらの貧困や紛争はサルや犬ではない、人間そのものが引き起こしている。誠に失礼ではあるが充分に満たされている食料事情にあって一尾の海老の天ぷらで執念深く追求する方々とまったく同じといえる。海老天や原油を離れ人間そのものの貧弱さを露呈している。
紛争者双方の精神的貧しさが互いに葛藤を生み、紛争につながっているとし、そこを理解する必要があると私は考えている。私にとって紛争地域での合気道の指導自体がファシリテーションでありファシリテーターの活動を受け入れやすい紛争者双方の体質改善の一歩であると考えている。自画自賛となるが経験の乏し
い若い指導者や早目の定年で「私も何か社会に役に立つ事を」程度の考えで、技の指導しか出来ない者が指導したのでは、ナイフをくれて使い方を指導しないようなものであり逆効果を招く。合気道ファシリテーション思考の実践は多くの現場経験を積んだ者だけが可能なことである。
「紛争解決」は「貧争の解決」から始まる。紛争解決には機関銃やミサイル、などあらゆる殺傷武器がちらつく。「貧争解決」には警棒も拳銃も必要としない。
時間がかかるであろうがまずは我々自身に潜む「貧しき心」との戦い「貧争解決」と立ち向かう必要がある。その一つの手段として合気道におけるファシリテーション思考が効果を持つと考えている。
合気道の演武を見て武道を感じ取れない者も多い。上下、勝負の世界にある者にとっては理解しがたいであろう。合気道の哲学とは永遠に求める無刃取りの境地であり、合気道は世界各地で必要としているファシリテーション技術の研鑽に大いに役立つ修行法と私は考える。
合気道日本館総本部は武道である合気道の社会的実践を研究し、AHAN活動の実践を通して人道、平和のファシリテーション手段としての合気道の普及に努めている。
日本館総本部
創設館長 本間 学
平成21年8月15日 記 |
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