先日、50代最後の誕生日を過した。20年ほど前から道場パーテーや内輪の飲み会など祝い事は一切しない事にしている。誕生日に限らずクリスマス、新年などにもカードやプレゼントを受け取らない。古い門下生はもう承知の上であるが新しい者は戸惑ってしまう様である。しかしこれが私自身もっとも満足する方法である。
アメリカで37年「先生生活」をしていると門下生が大きな祝いのパーテーを開いてくれ、包装紙を破ってプレゼントを開けるのに30分余りもかかるほどの贈り物をもらい、お祝いのカードの中には小切手や現金が入っているという「甘い生活」が当たり前のようになった時期がある。ある日の誕生会の翌日、激しい二日酔いの中で「もうこんなことを毎年やっているのは馬鹿らしい」と言う単純な理由ですべての「先生ベネフィット」を放棄してしまった。その後は門下生が私に対して与えてくれる「先生ベネフィット」をコミニテーに誘導する事に方向転換したのが現在のAHANの始まりである。最近は開発途上国の最底辺で暮らす人々との交わりを多く持つようになって人生の価値観にさらに大きな変化が生じている。
日本館総本部は過去37年間で私が考える以上の発展をし、現在では日本館の基本思想としている「エンゲージド ブドウイズム」社会直視実践武道主義を基とした実践活動組織「AHAN日本館インターナショナル」に発展、世界を舞台として活動している。ご存知の通り日本館は合気道の稽古を主軸とする団体であるが現在では人道支援団体に重きを置いている。
実はここまでに至った経過を知るのは門下生の中にも余り存在しない。直門下生の中に知る人が少ないくらいであるから遠い国の合気道家など知るよしもない。最近多いメールは「どうやって独立道場を成功させたか」「文化センターなどを備えた道場をやってみたい」など私の成功した光る部分のみに興味を持って探ろうという方が多い。成功のエッセンスのみを求めている様であるが私にはそういったものは無い。多くの皆様が「どうやって?」と問いかけをしてくるが「ただ目標に向かって黙々とーー」としか返事の仕様が無い。「山で瞑想をしていたら」とでもなれば武道家らしいのだが「二日酔いの朝に悟った」のであるから酔っ払いすべての人に悟りのチャンスがある事になる。
人生に夢や目標がない事は寂しい、人生に夢や目標を持てるという事ほどすばらしい事はない。ただし夢や目標というのは天を仰いで突っ立ていては定まらない。決して夢や目標からはやって来ないし、見つけたと思ってもスルリと変化するのが通常であろう。しかし絶えず変化する夢や目標を追いかける多様な生き方は決して人生を後ずさりさせる事は無いように思える。悩み停滞するよりも歩み続ける事が更なる夢や目標に出会うのである。二日酔いの朝に出会った夢や目標であってもそれが自身にとって善であれば行動するだけである。
以前の私の記事「大地を歩もう」で、あるカリスマ空手家が三輪車から二輪車、そして最終的には一輪車へと挑戦するのがあたかも人生の価値のごとく主張した事に対し私は真っ向から否定した。結局一輪車の次は地べたに降りるだけの事であって星を竹ざおで落とそうとする哀れな行為と考えている。所詮我々凡人は車輪などの無い素足からの人生である。そして一輪で土砂を運び、二輪車で荷物を運び、三輪オートで一日中稼ぎ、タクシーやトラックの四輪運転手になりと、人生が重厚になればなるほどしっかりした車輪が必要なのである。同じ目標でも「つま先立って天に求めようとする縦の目標」と「大地を歩む真横の目標」とはまったく異なる。
日本館には実に多くの車輪が存在している。車輪、それは数え切れないほどの頭脳明晰なオフィススタッフ、不可能の存在しないメインテナンス技術スタッフなどの門下生であり、友人であり社会そのものである。
現アラブ首長国のアブダビ日本国大使館勤務で、昨年秋までデンバー総領事館勤務であった山上春男領事が転勤となる前のほぼ二年間に渡り、日本館総本部そして私本間を取材し「コロラドの虎 ある合気道家の物語」全28話として膨大な記録を残してくれた。この中から第21話「青春日本館の立ち上げ」を著者山上春夫氏(作家名 山本春樹)のお許しを得て日本館の30年以上も前の事実を紹介したいと思う。
将来、日本館幹部達に残すべく山上領事の取材に応じたが、チャンスを求める多くの合気道家、人生の方向に迷う合気道家などからのメールに答える代わりにこの第21話を公開する事にした。私は決して大金と大きなコネと300人の門下生と一緒に渡米したのではない。何もなくスタートしたのである。つまりは何も無いと思っている貴方でも「やれば出来る」のである。私が出来たのだから。
日本館総本部
創設館長 本間 学
平成21年5月13日 記 |
「コロラドの虎 ある合気道家の物語」より
山本春樹著
第二十一話 青春日本館の立ち上げ
その昔、「何でも見てやろう」という本を作家の小田実が書いて大評判となった。その本の中で六十年代のアメリカ、特にニューヨークにおける日本ブームについて書いている。禅思想を中心とした東洋の神秘的なものにアメリカのインテリ達が強い興味を抱き始めた様子が軽妙なタッチで描かれている。
さて、六十年代初頭に東部ニューヨーク、ボストンで始まった日本ブームは、七十年代になると中西部のデンバーにも影響を及ぼしていた。
文化交流の場を作ろうと考えていた本間は 一九七六年、合気道を教える傍ら、米国人に日本文化を教えるため「ジャパン・ハウス・カルチャーセンター」を設立した。となるのが文章としては収まるのだが実は違った。「合気道を教える傍ら」ではなく「合気道を教えるため」であった。すでに十数年前からデンバーには富木合気道や幾つかの空手道場があった。柔道に至っては戦前から盛んであった。そこに飛び込んだ本間にとって合気道だけではインパクトが弱かったのである。そこで日本語会話、茶道、華道、書道、日本料理等のクラスを開いた。
とにかく人を集めて日本文化の土壌の中から合気道を浮き上がらせようとしたのだ。日本語会話クラスには二百人以上の米国人生徒が集まってきた。茶道、華道、書道そして日本料理教室は物珍しさもあり教室はいつも一杯であった。本間はその頃のクラス申し込み書を書類箱に今でも大切に取っている。
これらの日本文化を教える講師は十数名いたが、全員ボランティアであり、ほとんどが日本から来た若者であった。現在デンバー日本語補習校の校長先生をしている清水秀子先生も、その当時デンバー大学の留学生であったが、草月の師範の免状を持っていたことからその活動に参加するようになり、華道を教えていた一人である(奇しくも清水校長は植芝開祖の孫である守央(もりてる)氏と小・中学校の同級生であった)。また、現在デンバーで公文塾や幼児向日本語教室を開いている浅野由美子先生も当時日本語会話クラスで講師として奮闘していた一人である。後に日本館がスポンサーとなり米国永住権(グリーンカード)を取得した。
本間はデンバー植物園の近くに二階建ての大きな一軒家を借り、「ジャパン・ハウス・カルチャーセンター」の看板を掲げた。そしてスタッフ全員がそこに泊まり込んで共同生活をし、カルチャーセンターの活動を行った。寝室にベッドを置くと教室として使えないのでベットを取り外し、夜は各部屋のデスクやテーブルの下にマットを敷いて寝た。そして朝起きるとマットを片づけて教室にした。十数名の日本人ボランティアはほとんどが若い女性だったので、一部の日系リーダーたちの間では本間がジャパンハウスでハーレムを作っていると噂された。
また古参の日本人武道師範からの中傷も激しかったばかりでなく古参が集まる飲み会に呼ばれ「俺たちは泥水すすってもお前のような雑貨屋にはならない」とまで脅かされたときもあった。そこで仕方なく日系社会との関係を絶ち日系以外の多くのアメリカ人に集中して活動を始めた。結局それが現在の成功につながったと本間は考えている。
そのカルチャーセンターで教えるクラスは毎日夕方五時から十時頃までであったが、昼間は小学校や中学校へ出かけて行って出張授業(カルチャーショー)を行った。生け花や習字のデモンストレーションを教室で行う際は、英語の解説をテープに吹き込んでおき、テープの解説に合わせてデモンストレーションをして見せた。そのテープにはバック・グランド・ミュージックも入れて雰囲気を作る努力もした。カラオケではなく「カラデモ」でこの方法は日本から来た英語を得意としないボランテアにとって実に便利な方法であった。テープに会わせてのデモなので時間通りに終わるため学校にとっては都合が良かった。もちろん最後は本間館長による合気道のデモンストレーションである。これもただ見せるだけではなく解説や音楽をテープで流した。このカルチャーショーはかなり評判が良く、デンバーとデンバー周辺のほとんどの小中学校から声がかかり出かけて行った。多いときは一日に三、四校回ることもあった。
このカルチャーセンターには活動資金というものがほとんど無かったので、お金をかけないように色々な工夫をした。生け花の花材は、花の卸問屋のゴミ箱に捨てられたものの中から、使えるものを選んで拾ってきて活用した。野外に咲いている花で使えるものは全て使った。
生け花の花材集めでは色々な思い出がある。夜中に卸問屋のゴミコンテナーをあさりに行った時の事である。ボランティアの青年が花が捨てられている大きなごみコンテナの中に足を滑らして「ドスン」と落ちてしまった。するとコンテナの中から「
ギャー!」というけたたましい猫の鳴き声が聞こえ、大きな猫がその青年の頭をジャンプして飛び出してきて闇に消えていった。彼の顔を見ると猫に引っ掻かれた傷跡が生々しく残っていた。名誉の負傷であった。
また、ある時、生け花担当の日本人女性が花材を探しに行って帰ってきて言った。「先生、とても素敵な形の野草を見つけました。すぐ近くの垣根の外で雑草と一緒に生えていました。何の葉か知らないけど、とても綺麗な葉なんです。館長、これは何の葉か知っていますか?」本間が見るとそれはなんとマリファナの葉であった。近くの人が密かにマリファナを栽培していたらしい。館長は慌ててその枝を捨てさせた。
日本文化を生徒達に実体験させるために、本間は日本館の生徒達を引き連れて日本へツアーにも行った。毎回十五人程度の生徒を引き連れて、年二回日本各地を旅行した。東京、京都、奈良を当然として、かつて本間が若い頃の放浪時に過した青森の十和田湖や奥入瀬そして古牧温泉へも行った。古牧温泉では米国人の生徒達は初めて日本の露天風呂というものに入り大喜びであった。また旅行先の各地方で珍しい伝統民具を見つけるとデンバーに持ち帰ってはジャパンハウスのあちこちに所狭しと置いておいた。それらを整理し展示したのが現在の日本館日本民具収集館である。
年二回は日本旅行をした
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ジャパンハウスの活動及び日本文化などを紹介・宣伝するため、「ジャパン・ハウス」という新聞も発行した。月刊紙であったが一万部を発行し、デンバー市内各所のコミュニティ新聞置き場に置いた。千部や二千部ではない、一万部も発行したのである。情報発信活動の重要性を彼は認識していたのである。
当時発行していた新聞の一部
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本間の凄まじいまでのこの文化活動を強力にサポートしたのが、慶応大学の学生であった菊池裕氏である。彼はその当時デンバー大学に留学していたのであるが、ある日、日本館の合気道場の門を叩いた。そして本間師範と出会い、本間氏に魅せられ、そして本間ワールドに引きづり込まれることになる。そして彼の運命も大きく変わってしまった。
旧チェロッキー道場の建設、菊池(右)の力なくして日本館はなかった。
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菊池は優秀な男であった。本間の立案する様々な企画の実現化に奮闘した。主に新聞発行の責任者を務めた他、英語が堪能であったので、英語の翻訳や英文の資料作成の責任者として活躍した。良い仕事をするためには優秀なブレーンが必要であるが、優秀な人材はいわば「あうんの呼吸」のようなタイミングで出現するもののようである。
この頃、ニューヨークの大菩薩禅堂「金剛寺」やニューヨーク禅堂「正法寺」住職の「禅センター」で活躍していた嶋野栄道老師がデンバーに指導に来た。嶋野栄道老師は肩を揉んでいた本間に「ジャパン・ハウス・カルチャーセンター」という名前を変更して「日本館」とすべしとし、更に、日本館のロゴマークも幸運を呼ぶ「白牛」にすべしとアドバイスしてくれた。それ以降、本間の合気道場と文化活動の拠点の名称は「日本館」となった。
嶋野老師の肩をもむ本間
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その日本館で本間は活発な文化活動を行っていたが、その活動もあって本業の合気道も大きく発展した。一九八三年に、フェデラル・ブルーバード通りに面した建物の二階を借りて最初の道場を開いたが、一年半後には生徒の急増により、チェロキー通りに新たにより広い道場を構えた。その道場で百人余の生徒に、毎日厳しくも楽しい稽古をつけた。生徒は沢山集まってきたが、月謝を安くしたので収入はさほど多くなく、生活は厳しかった。川原の草や難民の人たちがゴミ箱に捨てた政府配給食品を拾って食べた事は前項で書いている。
デンバー市立美術館で演武をする本間
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スタッフの食料として畑を作る
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また毎週日曜日の朝、本間は道場近くのチーズマンパークという公園でデモンストレーションを兼ねた朝稽古をした。毎回二十人程度の生徒が参加して合気道の稽古をしていた。稽古後はセンターに戻って皆でブランチを作り楽しいひと時を過した懐かしい思い出がある。散歩で通りかかった人がいつの間にかブランチの中に入っていることもあった。その頃同じ公園で一人の日本青年が空手の稽古をしていた。木に大きなサンドバックを吊して一人で黙々と汗を流していた。後で分かったことであるが、その男こそ、あの極真空手の星・二宮城光(現円心空手館長)であった。(二宮館長の活躍振りについては拙著「平成の宮本武蔵」(eブックランド出版)で紹介)このときの出会いから二宮館長と本間の深い友情関係が現在に続いている。
日曜早朝の稽古
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日本館の活発な文化活動を維持するためには資金が必要である。資金を稼がなければならない。本間は住み込んでいたスタッフの男達や合気道の門下生を引き連れて夜間のビル清掃の仕事をした。常時二つの大きなビルの清掃を請け負って仕事をしていたが、ある時、モンタナから来ていた米国人内弟子が清掃作業中にビルのオフィスから無断で長距離電話をしてしまった。当時は電話代が高かった時代である。その無断使用がビル関係者にばれて、本間館長一行は翌日からそのビルに出入り禁止となり、仕事を失ったこともあった。
杖取り菩薩から不言実行仏へと修行を積んで来た本間は、目の前に濁流の川があれば橋を架け、険しい山が立ちはだかればトンネルを掘り、未知なる新たな世界を求め、そして己の無限の可能性にチャレンジするが如く、朝から深夜まで寝る間を惜しんで毎日忙しく動き回っていた。
しかし、それにしてもこの凄まじいまでの日本館の活動には目を見張らざるを得ない。学校訪問、カルチャー教室といい、日本ツアーといい、そして新聞の発行といい、「文化のインターチェンジ」構想を実現するため実践したそれらのアイデアと活動は刮目すべきものがある。
だがそれにしても、本間をそこまで駆り立てたものは何なのか。本間のその凄まじいエネルギーはどこから出てくるのか。それは少年時代の岩間の道場で、女中の菊野に「学さんは目を開いて寝ているね」と言われた開祖内弟子の頃の緊張感の延長にほかならない。岩間の里での修行に始まり、青ヶ島での過酷な仕事、デンバー貧民街での厳しい人生修行、一部日系人からの執拗な中傷・・・。通り抜けた過去の厳しい日々の生活に比べれば、日本館のこの程度の活動は彼にとっては遊びのようなものであったであろう。しかし、一緒に活動したスタッフはさぞかし大変な思いをしたに違いない。
だが私は思う。米国の自由の地で、日本の若者達が自分達のやりたいことを精一杯やったという意味では、これ程面白い事はなかったのではないだろうか。本間の率いる「青春日本館」は、その当時ダイヤモンドのように輝いていたことであろう。現在の日本館の発展の陰には不眠不休で日本文化紹介活動に青春をかけた多くの若者の力があったのである。
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