館長コラム◆◆  

東ティモール武術闘争集団を考える 第一部
 

 講習会で必ず述べる言葉が私には二つある「武道が人間を創るのではなく、人間が武道を創るのだ」が一つ「「武術は人間の本性として自然発生したかもしれない、しかし武道は明らかに人間が創った」が一つである。

 積極的に開発途上国を訪れ多くの武道家たちと交流を深め、武道の社会的地位や影響力,価値観などを観察する事に努めてきた。それによって開発途上国の武道に共通している特徴、問題点などを知る事も出来た。その経験と米国での武道生活34年の経験をもとに開発途上国、今回は東ティモールの現状を二部に分けて検証してみたい。
 
 2007年11月17日から22日まで私は東ティモールで合気道指導のため訪問した。韓国「大韓合気道会指導員」で国連警察警備射撃指導官として東ティモールに派遣された韓国警察警部ソン.ズファン氏の招待によるものであった。この国にはTimor-Leste Aikido Federation (TAF) 日本語では「東ティモール合気道連盟」という合気道の団体があり30名ほどの男女が稽古している。
 東ティモール合気道の歴史は浅い。2003年イタリア人合気道家が四ヶ月間余り指導、日本の麻布道場で合気道を稽古された経験を持つ国際協力機構JICAの東ティモール事務所職員の和田泰一氏が事務職の合間にボランテアで2004年から6年の騒乱で退避命令が出る直前の4月まで指導、2007年3月からはソン.ズファン氏 が和田氏と出会い、さらにエジプトから国連警察として派遣されたジアド.アブアメ氏(所属、エジプト合気道協会、熊谷研二師範)を加え稽古を再開、現在に至っている。2002年から約2年間日本の自衛隊施設部隊が国連支援のため派遣され撤収時に残された柔道畳が合気道の発展に大いに役立っている。

 東ティモールの状況はネットに多くの情報が掲載されておりここでは簡単に状況を述べる事にする。1999年にインドネシアからの独立反対派による破壊行為によって国土が荒れ、そして2006年には軍隊内の出身地争いで多く犠牲者と15万人の国内罹災難民が生じた。現在は世界39カ国から1623人の警察官が国連管轄下で治安活動に従事、さらに国連の文民スタッフも400名余りが滞在している。他に現地採用の国連活動関連要員1万人余りが世界で一番新しい独立国の一人歩きを支援している。
 この一人歩きの大きな障害となっているのは15〜20余りの「武術闘争集団」というギャンググループである。現在は警備会社などに姿を変えているグループもあるが、いまだに殺傷沙汰は絶えず、国連警察の多くの仕事はこの「武術闘争集団対策」にあてられている。つまり東ティモールの一般民衆における武術は「悪」としての存在でしかないのである。事前に明記するが私は「悪は武道」とは言っていない。「武術」と記述している。この部分の違いを明確にするのがこの文章でもある。

 国連警察官に支給される月額の給料は一律3千ドル。現地採用UNスタッフの給与は現地警察官が70ドルの給与にあってその2倍である。治安にあたる国連警察UNPOLのみで5000万円以上の予算。国連派遣シビリアンの平均給与が7000ドル、現地採用の全スタッフの給料、部隊維持費などを計算したら莫大な金額が費やされ、なかでも「武術戦争対策」に費やされる金額は最も大きなものと云われる。国民平均所得が一人当たり一日一ドルにも満たない生活のなかで「愚かな浪費」でしかない。こう云った予算をインフラの整備や教育、医療、福祉、産業奨励などにまわせたらこの国の発展がいかに速まるかは識者は充分に承知であるがこの「武術闘争集団」が考えを改めない事には前に進まないという状態が続いている。
 しかし果たしてこの「武術闘争集団」に問題の原点を押し付けて良いものだろうか。そもそも「Martial art War(武術戦争)」とは何の定義を持って命名したのか、あたかも集団同士の強さを誇示するために殺傷しあっているようだが私には疑問である。その定義は彼たちの行なう「行為」に対してのものであり、本質を問うものではない。私には彼らの表面上の行動を最大限に利用して問題の本質を隠そうとしているもっと深い事情が有るような気がする。
 マーシャルアーツは一般的に「武道」と訳されるがこれは極めて日本人的解釈であり、武術、格闘技などは地球の隅々、一切の民族が様々な理由で考え出した本能的格闘技術である。これに道を付け「武道」としたのが日本人である。そういった武道と本能的武術格闘技を「マーシャルアート」と同一解釈する事自体過っている。これらの「武術」と我々日本人が理解する「武道」とはルーツは存在しても異なるものと考えなければならない。国連などから派遣される高等教育を受けた方々ですらこの事を混同している人が多く、情報がどの筋からはいったかによってマーシャルアーツに関する理解度は大きく異なる。この理解度によって「武術闘争集団」に対する評価も大きく異なってくる。
 この国の再興に深く関与しているある国の調査官報告である2006年9月のレポートによると23万人の若者集団(このレポートでは対象となる若者の年齢は具体的に記されていない)のうち2万人がこの武術闘争集団に登録されているという。さらに9000人余りが登録する事無く練習をしており首都ディリ13地域全域に支部組織を互いに有していると報告されている。そのころの想定人口94万人から割り出したら大変な数である。この報告書に有るように「争いの原因は政治的、出身地域対立などであるが捕らえてみたら武術関係者であった」と報告されている。しかし推定2万9千人もの武術に関与している者がいれば当然であり、捕らえた者に軍人や警察官がいてもおかしくはない。それをもとに「だから武術集団が悪である」とする結論は命を張って信奉する自己の武術〔それがたとえば見せかけのものであっても〕に対する屈辱とリーダーや指導者に対する冒涜であって益々彼らを追い詰めてしまう。独自に解釈構成されたカルト的武術思想には常識では理解できないほどの忠誠心が存在している。「悪い奴が武術をやっている。しかも彼らの武術は取るに足りない」的扇動行為はむしろ逆効果である。
 武道指導者としての立場から、結果的になぜ武術闘争集団が発生し暴徒化したのか、彼らはなぜそういった方向に進んだのかを理解する必要があると考える。「わずか五日間の滞在で何がわかるのか」と疑問も有るかと思うが、これまで私の頭脳に蓄積している他の開発途上国の例と重ね合わせたなら判断にそれ程の時間は必要は無く「発生すべく発生した集団」の答えが出てくる。それは決して悲観的な情報だけではなく、このような集団が国や地域を支える若者グループと変化して行ったり、国を代表するオリンピック選手などが生まれ若者思想が大きく変化して行った例もある。調査官の報告が正しいとして、東ティモール2万9千人もの武術家もしくは憧れ予備軍の中には必ず優秀な人材が埋まっていると確信してる。荒れた国を立て直すには多少荒っぽい部分が無ければリーダーとしては難しい。
 治安関係者の多くは「武術の名前だけを唱えるだけの暴力集団」ととらえ「そのためには正規の武道指導を見せ付けるべき」と意気込んでいるようである。しかしそれでは武術闘争集団を自称する彼らと正規の武道グループの対立が深まりかねないと私は危惧する。
 以前ニカラグアの奥地で手作りの稽古着、袴、ヌンチャクを持った自称「サムライゲリラ」のグループに出会ったときがあるが世界を回っていると結構こういう連中は多く存在する。思わず噴出したくなるが彼らは真剣である。先進国の都市部で武術格闘映画がヒットすると道場の入門者が増える傾向を考えれば彼れらの心情を理解する事が出来る。彼らの場合はわずかな情報を実体験できる機会も無く(指導者の下で稽古などを通して)閉鎖的な状況や精神的窮地に置かれている場合は限られた情報をもとに独自に解釈構成されカルト的武術集団に変化し、とくに心に焼きついた格闘殺戮情報を過大に表現実践する傾向にある。本物のおもちゃが買えなければ手に入る材料で工夫を凝らして作るのと同じである。
 飢餓貧困、政治,、民族、部族的対立などにおいて自己防衛の必要性に迫られたとき、相手に対する威嚇や自己集団に対する闘争心の高揚のためこう云った格闘武術は技術的なものより「よりどころ」としての役目を果たしている。したがってその武術は悲惨であればあるほど相手を威嚇する効果がある。またこの前期段階としてユニフォームに意思表示を示したり、自己の肉体に刺青や傷をつけて「自己表現による威嚇行為」をする傾向にある。極めて人類の歩みを逆行する場合がある。この部分を理解せず「正統武道を」と叫んでも彼らは益々閉鎖的になりその実力の示威行為として互いに争う結果を招く。また正統武道の展開によって情報が提供される事で、集団から覚醒された若手の離脱を抑えるため、追い詰められたリーダーは組織維持のため次のステージ「テロ集団、もしくはそれに匹敵するもっと強力なもの」と接触し移行していく可能性を私は憂慮している。
 彼らを決して追い詰めてはいけない。そして何よりも訴えたい事がある。この国でも武術格闘集団の背後には政治経済的利権や地位を求める国内外の陰が暗躍しているような気がする。利権の内容は異なるにせよ他国においてもこういった集団には同じような事実が存在する事を私は確認している。
 先に書いた国連スタッフの人数と庶民の収入比較をもう一度確認して欲しい。東テモールは米ドルが通貨である。2000人余りの国連警察や文民それにオーストラリアとニュージーランドの軍事支援部隊、各国外交関係者などは本国とほぼ変わらない「外国人料金」である。ヤギ300ドル、豚400ドル、犬200ドル、鶏50ドル、これは国連関係者が運転中に誤って放し飼いの家畜をひき殺した時の示談金である。国民個人の生活水準から見たらいかに外人料金が経済のよりどころになっているか判断できるであろう。
 国連警察として集まっている警察官出身国はその多くが開発途上国からで、日本韓国などは全体のわずかな数字である。ちなみに私の滞在したときの日本人警察官は二名であった。某国出身の警察官のやや上の方で月給200−300ドル、某国にいたってはそれよりはるかに少ない月給である。つまり彼らにとっては一ヶ月で一年分の収入を得るわけで、任期を延ばし2年もいたら本国に屋敷が立つわけである。某国の郊外には傭兵御殿と並んで国連御殿が建っているのもうなずける。私が滞在した東ティモールの外国人が住むアパートメントホテルの値段はデンバーのダウンタウンの賃貸し料に匹敵する値段でそのオーナーは海外に生活している。経営者にしてみれば一つ星程度のホテルで毎月数万ドルを手に入れる事が出来る。戦闘破壊行為は望まないが、平和が訪れ国連の撤退があれば困る人は実に多い。「この国は格闘武術集団の闘争によって潤っている国であり、他国の経済すら救っている」と極端な表現となってしまう。
 某国と東ティモールの間の海底油田。東ティモール国内の混乱状態は政治的発言力も弱く、この利権を得ている国にとって好都合であり、格闘武術集団の存在は維持したいところであろう。かといって私は某国を批判する気は無い。ほぼ世界の紛争の陰には大国や隣国の思惑があり「世の中こんなもん」と理解している。ただ願うのはこの2万9千人の将来に灯りをともしてやって欲しいという事だけである。過去において暴動殺戮行為をした者たちになぜ温情を持つのかと批判もあるかもしれない。ましてや被害者側の者は許しがたき事であるかもしれない。しかし彼らが「武術闘争集団」のレッテルを貼られる事になった陰には、何の自尊心も無く「武道」から「道」を剥ぎ取り、己の優越感と金儲け主義に走った格闘武術家、それを制止できなかった武道指導者にある。この事に関しては二部で申し上げる事とする。

 東ティモール平和構築の可能な者は一体誰なのか。誰が出来るのか。ほかでもない武術闘争集団のリーダーを中心とした青年たちである。彼たちがもっと正しい情報に接し、社会情勢を見つめ、何をする事が家族のため、国のためになるのか目覚める事である。少しでも早く「武術」ではない「武道」を習得する事である。教育の場に戻る事である。
 規制する側にも改善すべき事はある。東ティモールでの正統武道の指導展開は相対する威嚇行為ではなく、彼らとの融和を図り青年の教育手段として彼らの望む武術を充分に稽古できる場や指導者を与えるべきだと思う。むしろ彼らが武術として信奉している「技術」を認めてやり、技術を持っているリーダーを集めて東ティモール独自の武術を創りだすほどの寛容な心で受け入れてやる必要がある。「武術闘争集団」として異端児扱いし規制する以外の手段としてこう云ったプロジェクトも有効と考える。

そして何よりも重要な事は、権力者が自己の立場の威嚇行為のために若者たちを「武術闘争集団」つまり「民兵化」する事に対する社会的モラルの構築こそが大切であろう。
 
 寺院に備えられたバタラム(灯明)の明かりと開店の準備をするランタンの明かりしかないネパールの首都カトマンズの朝6時のラガマササカー競技場。その円形スタジアムのスタンド下には20を越える武道グループがそれぞれの道場を構え、さらにはプールサイド、体育館、野外に至るまで500〜600人余りの若者が武道を稽古している。私はこう云った光景を他国では見たときが無い。
夏は一千名を越える時もあるという。この原点はカトマンズ市内の空き地などで稽古をしていた武術集団をスタジアムに集め、稽古場所の提供、使用料などの便宜を図る代わりにスポーツ教育機関管轄下にし、武術集団同士の争いや、地域への威嚇行為の改善を図り成功した例である。それ以前は多くの問題があったと聞く。

 ブルースリーとともに世界に武術ブームが起こった。彼に続く腕に自慢のある者は先進国に飛び出していった。失礼ではあるがその中には一般的社会モラルを持たない狂信的な「強さ願望」の者もいた。やがて格闘武術映画が香港、ハリウッドの資本家の手に握られ抑制の無い殺戮格闘武術として比較基準を知らない純粋な庶民に「娯楽」として飛び込んで行った。さらには興行格闘武術がTVの視聴率上位に位置する事になる。

 日本人の専売特許であった「武道」。世界における地位が揺らいでいる。
国技の相撲は外国勢、国際レベルの組織における柔道はすでに会長どころか理事職も無く、剣道世界大会は米国にそして韓国に優勝をさらわれ、空手にいたっては本部がフランスにある状態である。合気道においても組織崩壊はすぐにやってくる。なぜこのような事になったか?考える必要は無い。道や精神論ばかりに酔いしれていたからである。武道的解釈は試合や組織にはなんらかかわりの無い事である。「日本は勝利に至る経過「道」を重視し、他は勝利を掴んだ後に道を説く」これほど異なると私は思っている。世界に飛び出した日本の武道と言うのは大小二振りを腰に付けチョンマゲ頭で無理やり「スポーツ世界」に入り込み、足元が崩れていく今日に気が付いていながらも日本精神論を楯に防御一辺倒にとどまった状態と考えている。外国人指導者と言うのはそういった日本人的思考を充分に理解したうえで寛容さを示しているがそれが「武道精神を理解した」と考える甘さが日本人武道界の弱点であると私は思っている。
 第二部では「武道」から「武術」に逆行して行ったアメリカと日本の状況を考証しながら東ティモールの「武術戦争」といわれる武術格闘集団の発生した流れをさかのぼってみたい。我々日本の先人武道家は長年の苦い体験を積み重ね「武術」から「武道」にと完成させてきた。多くの武道が絡む社会問題をまずは我々武道指導者自身反省してみる必要があるからである
 
 この第一部が日本館HPに更新として掲載される頃、私は東チィモールを再度訪問して合気道指導にあたる。可能であれば現地の少しでも多くの武術、武道関係者と交流を持ちたいと思っている。   



             本館総本部 館長 
本間 学 
平成20年1月5日記




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