館長コラム◆◆  

■開祖に捧げた生涯:故齊藤守弘師範を偲ぶ
この文章の原文は英文であり、平成15年1月10日に英語版日本館ホームページに記載されたものです。しかし「もっと多くの方々に故齊藤守弘師範の晩年を知っていただきたい」と願い、鈴木・三浦両氏が著者である本間館長のお許しを頂き、平成16年9月に翻訳したものです。原文は外国人を対象とした文章であるため一部日本語向けに変えてあります。



はじめに: この記事の一部は齊藤守弘師範ご逝去後すぐに書いたものですが,喪に服すべきと考え、本年まで公表することを控えていました。

2003年2月7日〜9日の間,齊藤守弘師範(以下齊藤師範)のご子息である齊藤仁弘師範(以下仁弘師範)にデンバーまでお越し頂き,「齊藤師範の追悼セミナー」として指導して頂くにあたり、この記事を載せる事にしました。

これまでに齊藤師範の合気道に関する多くの専門書が残されています。また師範は合氣神社社守,また茨城道場長としてのお立場から数多くのインタビュー記事があります。したがってこの記事では,これまでにあまり知られていない齊藤師範の別の側面についてお伝えしようと思います。素晴らしい武道家として世界中に知られていた齊藤師範の,よりプライベートな面を皆さんにお知らせできればと思います。

齊藤師範には多くの内弟子・外弟子がおり,何千人もの弟子がその教えを受けました。しかしながら,齊藤師範のプライベートな面を知っている人はほとんどいません。ご家族,親しい高段者の弟子達,そしてスタンレー・プラニン氏(合気ジャーナル編集長)のように,長年に渡ってお付き合いしている人でないと,齊藤師範の"本当の顔"(私はそのように呼んでいますが),あるいは齊藤師範の人となりを知る事はできないでしょう。

齊藤師範とは,私の少年時代に岩間でお会いしてからほぼ40年のお付き合いです。私は齊藤師範と出会えた事,そして何年もお付き合いさせてもらった事を誇りに思っています。齊藤師範の晩年と「師範の最後の戦い」を皆さんにお伝えする事が,齊藤師範の願いでした。特にアメリカの弟子達には,齊藤師範の人生の終わりはまた次の人生の始まりを意味している,という事を分かって欲しいと願っていました。私はそのために其の仕事を始めるわけです。

私たちは死を忌み嫌うものとして考えがちです。ホームレスであっても,ウォールストリートで成功している人であっても,武道家でさえも,この世において誰一人死から逃れる事は出来ません。武道家や映画スターはどちらも絶頂期の間は注目されています。

彼らが決勝戦で優勝する時,オスカー賞を獲得する時,彼らのことを耳にします。しかし彼らが年を取るにつれ,次第に忘れ去られていきます。

合気道の偉大な発展と足並みを合わせるように,開祖直弟子の方々もだいぶご高齢になってきました。 人間として,私たちは死から逃れることはできません。どんな高名な武道家さえ永遠には生きられません。武道家がどのようにしてこの避けられない「死」と向き合うか。そこから大きな教訓を我々は得る事ができるかも知れません。齊藤師範の最後の教え,それは「いかに死と向き合うか」でした。齊藤師範は死について,こんな事を言っていました。「死ぬことを怖がったり,逃げたりする事はない。勇気と尊厳を持って向き合えばいい」と。

私が齊藤師範に「仁弘師範と一緒にデンバーへ来ていただけないでしょうか」とお願いしたのは1999年のことでした。「どうもありがとう。でも遠慮いたします。」というのが齊藤師範の返事でした。「私のセミナーのためにデンバーに来る弟子達は私の教えを受けに来るのであって,仁弘の弟子ではない。何もかも大皿に盛り上げて彼にそっくり渡すのは,父親としては失格だ。もし仁弘が自立したいのなら,彼は一から自分自身で築き上げねばならない。彼をデンバーへ呼ぶのは,私が死んだ後にして欲しい。彼はアメリカで,一からスタートせねばならない。あなたにはそのための頑丈な土台作りをお願いしたい。」

このような経緯で行われる事ととなったご子息仁弘師範による追悼セミナーは,新しい時代の始まりとして,父親である齊藤師範と,そしてその御子息仁弘師範に対する私からの敬意を表する贈り物なのです。

今、数々の事を思い浮かべ、こうして偉大な指導者について書き残せる事を私は大変光栄に思います。

       平成15年1月30日
日本館 館長 本間 学 記

齊藤師範ご逝去の悲しみが残る岩間を後にして、私は和歌山県田辺市の高山寺へ向かいました。田辺は合気道の開祖植芝盛平翁生誕の地であり,そして開祖が眠る地でもあります。






開祖の墓碑の前で静かにたたずむと,興味深い事に気づきました。墓碑の後ろに整然と並んでいる3本の卒塔婆です。1本は齊藤師範のお名前が,残りの2本は開祖のお孫さんであり3代目道主である植芝守央道主のお名前が書かれていました。これらはここ数年に置かれた唯一の卒塔婆でした。卒塔婆には日付が記されており,齊藤師範は2001年6月10日,植芝守央道主は2001年3月31日となっていました。

多くの合気道家がこの地を訪れ,記念写真を撮って行く事でしょう。しかしお二人だけは,住職に数万円のお布施を渡して,卒塔婆を立てたのです。私にはこの斉藤師範の卒塔婆が、死を意識していた斉藤師範最後の開祖に対する敬意を表するためのお参りで有った様な気がして成りません。

そして1年後の2002年5月,私たちは偉大な武道家である齊藤守弘師範を失いました。彼は武道家であったと同時に,一人の人間でもありました。彼は癌との戦いに際して冷静に立ち向かいました。彼のその態度は,私達に対する最後の教えになりました。

1997年,齊藤師範はコロラド州デンバーへ3度目の訪問に来て下さいました。この年の講習会には全米から350人以上の合気道家が参加してくれました。閉会式の時齊藤師範は「みんな,楽しんでくれたか?」と参加者に尋ねました。これに会場の参加者は大きな拍手で応えました。齊藤師範は再び尋ねました。「アメリカに来るのは,今回が最後になるかも知れない。それでも,もう一度アメリカに来させて下さい。」これにも会場は万雷の拍手で応えました。

その時すでに,齊藤師範は食べ物をうまく飲み込む事ができなくなっていました。訪米の前に,齊藤師範は精密検査を受けましたが,検査結果が思わしくなかったと私に打ち明けてくれました。「日本へ帰ったら,手術が必要でしょう。」と齊藤師範は言いました。それでも,彼は訪米を止めようとはしませんでした。医者の警告も,家族の止める声も彼は聞き入れませんでした。やがて師範のご家族は私に師範の病状を教えてくれました。そこで私は訪米を中止するよう説得するため,日本へ飛びました。しかし師範は焼酎のグラスを片手に,強い茨城弁で「心配しなくていい,大丈夫です。身体は病気かもしれないが,気持ちは病気ではない。私にはまだまだやるべきことがあって,アメリカでの講習会もその一つです。」これを聞いた私は,もう師範を止める事はできないと感じました。自分の師範が決めたことです。「はい,分かりました」と言うしかありませんでした。

齊藤守弘師範は合気会九段で茨城道場長,合氣神社をお守りしており,世界の合気道界において重要な指導者でした。もし,デンバーで齊藤師範の身に何かがあれば,それは大変な事です。

齊藤師範は医者から訪米を止められていた事を誰にも告げずに出発しました。私たちは彼のお世話をするために,あらゆることをしました。私の弟子の中に,ユナイテッド航空のパイロットが2人おり,彼らには齊藤師範の訪米のため日本へ行ってもらいました。齊藤師範の座席はすべて,ファーストクラスでした。ユナイテッド航空のパイロットで日本館の会長でもあるダグ・ケリー氏と,齊藤師範がコックピットで一緒に写っている写真があります(後に齊藤師範は,この写真を何人もの弟子に見せて自慢していました)。空港に出迎えた私に「ファーストクラスは快適だったが,ずっと一人ぼっちだった。お供の者が入ってこれないし,乗務員が見張っているから,こっそり持ってきた日本酒を飲むこともできなかった。寂しいからな」と齊藤師範は上機嫌で私に打ち明けました。齊藤師範の健康そうなご様子と,そのような冗談を言う姿を見てとても安心しました。

講習会の期間中,私達は万全の医療体制を整えました。私の弟子のうち2人(1人は私のかかりつけの医師,もう1人は心臓(循環器)専門の看護婦)に齊藤師範を見守るようお願いしました。朝晩と稽古の前後に脈拍,血圧を調べ,どんな兆候も見逃すまいとしました。食事も,齊藤師範が普段食べているものがいいと判断しました。日本から持ってきた米や味噌などの食材を使って,全ての食事を私が作りました。齊藤師範が滞在した私の家のベッドを取り去り,呼吸しやすいように傾斜がついた布団に取り替えました。齊藤師範が夜中に咳き込むなど,介護が必要になった時に備えて,私は毎晩ドアの前に眠りました。

 ある晩,齊藤師範は夕食の途中に食べ物を喉に詰まらせ,咳き込みました。私達はすぐに駆けつけましたが,齊藤師範は私達を制し「少し静かに座っていれば,直りますから。医者は赤色の飲み物が良いと言ったので,赤ワインでも飲む事としよう。」私は止めようと思いましたが,結局齊藤師範の好きなようにして頂こうと考えました。齊藤師範はご自分の状態をよくご存知なのです。

 講習会が終わった翌朝,私は移動用のバンの用意をしていました。齊藤師範は車に乗る前に,足を大きく開いて四股を踏んでいました。「お元気ですね。活力がみなぎっています。」と声を掛け,そして「今日は何をしましょうか?」と尋ねると,齊藤師範は「あなたのレストランにある,日本庭園の手入れをしなければどうも安心して日本に帰れない」といってバンにさっさと乗り込んでしまいました。その時の齊藤師範は,世界の齊藤師範ではなく,世話好きなお爺さん、齊藤守弘氏個人でした。

私のレストランにある日本庭園に入った齊藤師範は、自ら庭を歩き回り,岩を動かし,枝を払いました。齊藤師範は庭の手入れを心から楽しむように先頭にたって若い者と働き、若い弟子でもなかなか動かせなかった岩を「どうれ俺が」そういって簡単に動かし、周囲の者を驚かせました。

 齊藤師範に同行していた秋田県支部の河辺茂支部長と奥様は、この日はまさか庭の手入れをするとは夢にも思わずご夫妻は外出用の服装をしていました。しかし齊藤師範が庭の手入れをしているのを見てすぐに手伝い始めました。ご夫妻の外出着やピカピカの靴は汚れ周囲の人々の複雑な笑みを誘いました。


庭の手入れが終わると,齊藤師範はご自身で動かした岩に座って庭を眺め「庭仕事の後の、この休みが最高なんだ」と大声で言いました。私は「その岩と,この庭に名前をつけてくれませんか?」とお願いしてみました。「これは『守弘岩』,この庭は『合氣苑』としよう。」と齊藤師範は名づけてくれました。「合氣苑」とは開祖植芝盛平翁によって作られた岩間合氣神社野外道場使われた名前でした。「それがいい。その名前はもう,岩間で使ってないから。この庭こそふさわしい。」と齊藤師範は続けました。

私のレストランにある日本庭園は当時,できてから1年も過ぎていないため,植木はまだ小さく,岩の方が目立つ程でした。齊藤師範は,木々がどのように伸びるかを予測し,数年後を見据えた手入れをしたのだと今でも強く信じています。齊藤師範は木々や岩をどのように配置すればよいか,すべて見通していたのです。齊藤師範は,庭の手入れも弟子を指導する事も同じ事だと言いました。その日本庭園が5年後,ザゲッツ・レストラン審査の装飾部門で,全米6,000軒の日本レストランの中から,ナンバーワンとして選ばれるであろう事は,そこにいる誰もが予想しなかった事でした。

デンバーから東京までは,非常に長い旅になりますので,齊藤師範と河辺先生にはサンフランシスコで一泊してもらう事にしました。その晩のホテルは35階、サンフランシスコ湾とゴールデンゲートブリッジが一望できる部屋でした。齊藤師範は部屋に入られるとすぐにバルコニーへ行き,両手を伸ばして「いいなぁ」と大声で言いました。午後の日差しは暖かく,海からの心地よいそよ風が吹いていました。

齊藤師範はまるで子供のように嬉々としながらご自分で荷物を解き始めました。そして荷物からウイスキーを取り出し,河辺先生を誘ってバルコニーで飲み始めました。肴なしでは決してアルコールを飲まない事を知っていましたので,私と齊藤師範のお供であるマーク・ラーソンは,何か酒の肴になるものを探しに急いでジャパン・タウンへ行きました。

私達が戻った時に見た光景を,私は忘れることが出来ません。齊藤師範と河辺先生は,バルコニーで座り,まるでお祈りをするかのようにお互い頭を下げていました。暖かい日差しと心地よいそよ風が,ご多忙なお二人をぐっすりと眠らせてしまったのでした。


齊藤師範帰国の二日後,齊藤師範は私に電話くれ「私は癌です」と宣言しました。「舞茸から取れる薬を探しています。舞茸は癌の特効薬だそうですが,日本では手に入らない。アメリカなら手に入るそうなので,日本まで送ってもらえないだろうか?」それは齊藤師範が癌と戦うという決意の現れでした。

私はその日のうちに,デンバーのあらゆる健康食品店と薬局を回り,舞茸から作った薬を全て買い取りました。新しいレストランのオープンが一週間後に迫っており,私は沢山の仕事を抱えていましたが,躊躇する事なく買い集めた薬を持って翌日日本へ向かいました。

齊藤師範は私の顔を見ると,涙を流さんばかりに驚き,喜んでくれました。舞茸が特効薬として効くかかどうかは重要ではなかったのです。齊藤師範に対する尊敬の念を示す事,それが重要だったのです。ほんの1分でも,齊藤師範を幸せにできたらそれで十分でした。

1998年4月,齊藤師範は生命に関わる程の大手術を乗り切り、その後目覚しい回復を見せました。

1999年4月,齊藤師範は「私は元気であり,デンバーへ行くつもりである」と私に電話してきました。「あの日本庭園には手入れが必要だ、夢にまで出る」と冗談まで言いました。第一に私が思ったことは,齊藤師範の体調を考え,デンバー訪問を中止してくれるように説得する事でした。しかしどうしてよいか分からなかったので,ご家族の方々に意見を求めました。ご家族は「少し声がかすれていますが,見た目は元気です」と言いました。私は齊藤師範に対して「先生,いついらっしゃいますか?」と尋ねる以外にありませんでした。

私達は前回以上に万全の医療体制で講習会に臨みました。齊藤師範1999年9月の講習会は何の問題もなく始まり,心配は杞憂だったのかと思った程です。齊藤師範はよく食べ,楽しんでいるように見えました。ご自身で食事を制限し,早めに就寝し自己管理に勤めていました。それでも私の家に集まった人が帰った後、「寝酒」を楽しみにダイニングに戻り河辺先生と宜しく楽しまれた時もあります。それは齊藤師範が海外でリラックスするために必要な時間でした。齊藤師範は手術の事を話して聞かせてくれました。「医者が『齊藤さん,3つ数えて』と言った。だから三つ数えて・・・憶えてるのはそれだけ。気がつくと,首から臍まで縫われていて,背中はなんと60センチも斬られてた。」まるで子供が初めて魚を捕まえたかのように,誇らしげに傷を見せてくれました。術後の経過は医者も太鼓判を押すほど良好で,齊藤師範はそれをとても自慢していました。

1999年の講習会には,350人を超える弟子が集まり,大成功のうちに終わりました。この講習会の終わりの挨拶でも,齊藤師範は参加者達に尋ねました。「みんな,講習会を楽しんでくれましたか?またコロラドに来る事が出来て,私はうれしい。来年もまた来ていいですか?」会場はこれに拍手喝采で答えました。それは齊藤師範が会場から出た後も,いつまでも続きました。祝賀会で齊藤師範は「白い稽古着」を大声で歌い,会場を沸かせました。(「白い稽古着」とは「おお愛しのクレメンタイン」の齊藤師範オリジナルの替え歌です)

その晩,カルフォル二アの後藤ハンス先生が私に「来年はカリフォルニアにお越しいただくよう齊藤師範に尋ねてもらえないでしょうか?」と真剣な顔つきで話してきました。私は「齊藤師範の体調次第だと思います。来年はデンバーへ来ない方がお身体のためだと思います。齊藤師範は大丈夫と言ってますが,実際はご自身の事はよくご存知のはずです。齊藤師範は岩間のご自宅で安静にしていて欲しいとと云うのが私の個人的意見ですが、一応御話してみます」と答えその場を離れました。

後に私は,慎重に言葉を選びながら齊藤師範に尋ねました。「先生,来年はカリフォルニアにある岩間スタイルの道場へお越しいただくというのは如何でしょうか?そうして頂けないと,全米の弟子から本間が先生を独占していると思われてしまいます。」少し間を置いて,齊藤師範はこう言いました。「一回の訪問で,カリフォルニアにある道場を回るのは,体力的に厳しいだろう。デンバーのように,アメリカの真ん中で一回の講習会を開いた方がいいのではないか?」そこで私は提案しました。「カリフォルニアにある岩間スタイルの道場のうちの一つで,一回の大きな講習会を開く,というのは如何でしょうか?」これに対して齊藤師範は「どこか一箇所の道場で講習会を行うとなると,他の道場から不満も起き、さらには将来指導者間に問題が生じるのではないか。それが心配だ。」と答えました。私はさらに提案しました。「先生が自ら一つの道場を選び,先生と各道場長から成る指導者委員会が講習会を一緒に計画する,というのは如何でしょうか?」これについては熟考されているようでしたが,お答えになりませんでした。

齊藤師範帰国後,師範から連絡を頂いたのは2000年1月の事でした。「今年はカリフォルニアで講習会を行う,誰でも参加できるように,準備に力を貸して欲しい」との事でした。齊藤師範はカリフォルニアの弟子達が一緒になって力を出し合っている事を嬉しく思っていました。齊藤師範は「デンバー方式」(これは齊藤師範が名づけた日本館講習会の方式です)をカリフォルニアの弟子達に一から伝えるのか」と尋ねました。私はこのように返事をしました。「先生,カリフォルニアには先生と幾十年もお付き合いしている弟子達がいます。先生がご健康なうちに,彼らを一丸とさせるには,このセミナーはいい機会なのです。彼らがチームとして一つの仕事を成し遂げるのが大事です。もし私が介入して,助言や忠告をしてしまうと,逆に邪魔をしてしまうことになります。彼らは自分達で講習会を計画・実行する力があります。私が関わらない方が彼らのためになるでしょう。」

斎藤 師範は私の助言を受け、西海岸で行われた講習会は大成功で終わりました。それは齊藤師範の弟子で岩間スタイルの指導者とその弟子達により主催されたものでした。

2001年5月,私は東京・日本武道館で行われる全日本合気道演武大会のために日本へ行きました。そこで齊藤師範は,三教の基本とその変化で,素晴らしい演武を見せ,観客から拍手喝采を受けました。この時既に,齊藤師範の足腰は弱っていました。受けを務めた方は実に見事な受けを行い,さらに,押さえの状態から齊藤師範が立ち上がるのを,誰にも分からないようにそっと助けていました。 齊藤師範は観客席で出番を待っている間,折り畳みができる杖(ツエ)をいじりながら「これ,どうだ?」と私に尋ねました。「この杖をアメリカの忍者に売る事ができるかな。まぁこれを買うような忍者だったら,たいした忍者ではないな。」これを聞いた周囲の方々は,師範のユーモアを聞いて爆笑しました。

翌日私は岩間を訪ね暖かい歓迎を受けました。新道場の食堂で,ご家族の方々と一緒に食事をしました。齊藤師範は楽しそうに過ごし,今年再びカリフォルニアに行く事に決めた,と言いました。それは齊藤師範が守ろうとしていた大事な約束でした。その場にいた人は皆,説得して思いとどまらせようとしましたが,齊藤師範は一歩も譲りませんでした。しまいには娘さんでさえ「父の考えを変えてもらうのは無理です。好きにさせてあげましょう。」と言いました。私が出発の準備をしていた時,齊藤師範は30振りもの木剣を私に持たせてくれました。

出発する直前,再び齊藤師範の娘さんとお話しました。齊藤師範の癌はもう足腰にまで影響していとの事でした。日本では普通の事ですが,癌患者本人には知らせる事はせず,家族にはその旨知らせる事が多いです。ご家族は,余命数ヶ月であろうと話をしていました。娘さんは師範の海外セミナーについては非常に心配していましたが,病気の悪化を師範に知らせる事はできませんでした。娘さんはまた,海外で齊藤師範を迎える方々に対しても心配していました。師範がアメリカにいる間,もし何かが起これば彼らにとっては一生心に残る傷になる事をです。娘さんはカリフォルニアの弟子達を説得して講習会を中止し,齊藤師範が海外に行かないで済むようにしてもらえないかと私に言いましたが,私は「私はそれを言える立場にありません。また齊藤師範とお弟子さんの邪魔になるような事はできません。」と答えるに留めました。

4ヶ月後の2001年9月11日,あの悲劇が起こりました。日本政府は緊急以外の渡米は延期,またはキャンセルする事を勧告すると公示を出しました。齊藤師範のアメリカ講習会に関して,この日本政府の発表を旨い口実にして渡米を思い留まるよう齊藤師範に電話しました。すると「今行くのはどの位危険なのか。もし行かなかったら弟子達はどう思うだろうか」齊藤師範は電話口で私に聞き返しました。私は「難しいです。あの悲惨な出来事を目にした人々がどう思うかは予想がつきません。セミナーを強行すれば,ある人は齊藤師範を鈍感な人だと思うでしょうし,ある人は勇気ある行いだと賞賛するでしょう。」と答えました。齊藤師範は続けて尋ねました。「本間君なら講習会をするか?」私は齊藤師範の健康状態をよく聞いていましたので,返答に非常に困りました。アメリカの弟子達は,齊藤師範をお迎えするために奔走していました。講習会が中止になったら,彼らは大きなショックを受けるでしょう。こんな時こそ出掛けて行き、みんなを勇気つける事こそ大切であり、武道家のあり方である事は当然と私は認識していました。しかし私は齊藤師範のお身体を第一に考え,セミナーを中止しましょうと進言しました。今,重要なのは齊藤師範のお身体と,ご家族の願いだったのです。

私は「テロの犠牲者に対して弔意を示す意味で,今回は中止にした方が良いと思います。」とそっと提案しました。講習会中止の助言は齊藤師範のお身体を第一に考えた上での事と,齊藤師範は恐らくご存知だったと思います。翌日,合気道ジャーナルのホームページに,齊藤師範の講習会が中止になった事が発表されました。齊藤師範は,私と講習会の中止について話をする前に,すでに齊藤師範は講習会の中止を決めていたのだと思います。私は講習会の準備に奔走していた米国の弟子達に大変同情しましたが,講習会中止によって一日でも長く生きられるよう,最後まで齊藤師範をサポートする事が私の務めであると思いました。

2002年に入ると,齊藤師範は入退院を何度か繰り返しました。2月には,癌が脊髄まで広がり,車椅子ので生活を余儀なくされました。医師からはもう秒読み段階に入っている事が告げられました。齊藤師範は病院での治療を止め,自宅療養を選びました。ご家族は齊藤師範の状態がかなり悪化している事を私に伝えました。私は2002年3月1日に,齊藤師範と会うために再び岩間へ行きました。

齊藤師範のご自宅へ行くと,齊藤師範のベッドが玄関のタタキ近くに移動され、しかも頭を玄関口に向けられているのを見て大変驚きました。日本,特に武道家は用心のため玄関や戸口から最も遠い場所で眠るのが普通です。また神棚に足を向けて眠る事はまずありません。しかし齊藤師範は,道場や庭で何が行われているのか,また弟子達が何をしているのかが最もよく把握できる場所を選んだのです。たとえ神棚に足を向けて眠る事になろうとも,弟子達に合気道を指導する事の方が大事だったのです。

齊藤師範はベッドに横になり点滴を受けていました。皮膚には点滴で出来たと思われる無残なアザが残り,とても痛そうに見えました。それでもなお,齊藤師範は「ケンカした時でさえ,こんなにアザだらけになったことはなかった」と冗談を言って周囲を笑わせました。

私は,足をマッサージしましょうと言って齊藤師範の足をマッサージし始めました。ふいに目から涙がこぼれました。かつて私は,開祖が亡くなる少し前に,同じようにマッサージをした事を思い出したのです。巡り巡って,再び岩間の偉大なもう一人の武道家にマッサージをする事になったのです。

約20分の間,マッサージをしながら齊藤師範のお弟子さん,特に海外のお弟子さんについてお話しをしました。マッサージを終え,私が部屋を出ようとした時,齊藤師範は私を驚かせました。齊藤師範は障子の向こうに控えていた内弟子に大声で「本間君に朝食を用意するように。それからストーブを点けて食堂を暖かくしてあげなさい。」と命じました。命令を受けた内弟子は大急ぎで食堂へ走りました。

齊藤師範は私の方を向いて,穏やかな声で言いました。「来てくれてありがとう。一緒に朝食を食べたいのだが,そうも行かない。食堂に朝食を用意させているから,食べて行って下さい。」齊藤師範は再び内弟子に向かって,ストーブを忘れるな」と大声で命じました。

朝食後,私はお別れを申し上げに行きました。齊藤師範は数10振りの木剣を持って帰るように私に言いました。私は師範のお気持ちに心から感謝し、お気持ちだけ頂いて帰りました。

2002年4月23日に,齊藤師範から電話があり,今年の4月29日に行われる合氣神社大祭に出席して欲しいとお願いがありました。大祭とは,開祖植芝盛平翁の誕生日にちなんで行われるお祭りで,毎年岩間の合氣神社で盛大に行われています。私は躊躇せず岩間行きを決めました。齊藤師範は大祭の準備を行い,大祭に出席されます。そしてその場に同席することが私にとって重要だったのです。

岩間に到着してすぐ,齊藤師範のご自宅に立ち寄りました。齊藤師範は紋付羽織を着ている最中でした。白髪を少し染めたそのお姿は威風堂々としていました。

齊藤師範は車椅子を内弟子に押してもらい,道場の前に行きました。大勢の弟子達が齊藤師範の周りに集まりました。私は齊藤師範とも面識があるユナイテッド航空のパイロット,ダグ・ケリーと一緒に師範の元へ向かいました。齊藤師範は私達を見つけると「ユナイテッド航空は大祭のため休業か?」とダグに尋ねました。 これには一同,大笑いをしました。齊藤師範のユーモアのおかげで,その場の緊張が一気にほぐれました。私は師範に近づき片膝を着きました。開祖のお元気な頃は、開祖の目より高いところには自己の目を置いてはならないと云う事を教えてくれたのは斎藤守弘師範でした。この特別な日に齊藤師範を見下ろすような失礼な真似はできませんでした。

齊藤師範は皆を前にして,ご自分の健康状態について話してくれました。そこは日が当たり,暑かったので「日陰に移りましょう」といいましたが,齊藤師範は首を横に振り,こう言いました。「何度も何度も検査だレントゲンだと医者にやられるので,病院を抜け出したんだ。俺にとっては道場が病院だ。ここが一番居心地がいい。放射線治療と薬では髪が抜けて,痩せ細ってしまう。世界中から薬草を送ってもらって,それを飲めるからいいんだ。」楽しそうに皆と冗談を交わし、さりげなく帯の仲に挟めた懐中時計を取り出し、手の平にのせ開きました。その仕草がなんともカッコ良く「先生、決まってますね」と申し上げますと「いいだろう、持っていくか」と抜き出されました。私は慌てて謝辞をしましたが、もし躊躇無くいただいていれば、斉藤先生の「時」を奪った大ばか者の後悔が一生付きまとう事になっていました。

大祭が始まると,内弟子に車椅子を押してもらい,齊藤師範は神社へ移動されました。齊藤師範は林の方を見渡して私に話しかけました。「本間君,私は何年も道場の庭を手入れしてきたけど,それも今年で終わりだ。私は掃除するために神社へ毎日行くけど,本部の人は1年に1回だ。それが可笑しくてな。お祝いに来てくれるのはいいんだけど,いつもゴミを置いていく。だから去年,ゴミを持って帰るように言ったら,そのゴミが岩間駅に行っちゃって。岩間駅のゴミ箱があふれてしまってよ,駅長から苦情の電話を貰ってな。それも今年で終わりだ。」齊藤師範は私を見て微笑みました。師範の車椅子が神社前に落ち着いた時、舞っていたつつじの花びらが髪と肩に乗りました。もし別の年だったら,もしお元気だったら,齊藤師範は神社の中にいたはずです。しかしながら,今年は神社の外にある,つつじの木の下にその姿がありました。私は、なぜ皆で、なぜ車椅子ごと社殿に揚げてやる事ができないのか怒りを感じましたが、私にはどうする事も出来ませんでした。

神社での大祭の儀式が済むと,道場で直会(なおらい)と呼ばれる祝賀会が始まりました。齊藤師範は小さなグラスで赤ワインを飲みました。飲んだのはそれだけでしたが,それでも齊藤師範は幸せそうでした。齊藤師範は,河辺先生と私の3人で写真を撮ろうと言いました。私達が近くに寄ると,ちょうど顔の位置にワインの瓶が写りこんでしまう事に気づきました。齊藤師範は「う〜ん,その瓶があると,写真を見た人が私の事を大酒飲みであると誤解しちまうな。」と冗談っぽく言いました。私達は急いで瓶をどかすと,真面目なポーズを取りました。齊藤師範はそれを見て面白そうに笑いました。

翌朝,アメリカへ戻る時間になりましたので,お別れを言いに齊藤師範のご自宅へ向かいました。玄関を入り障子の前で「デンバーの本間です。もう出発せねばなりません。どうもお世話になりました。」と言うと,齊藤師範は「本間君,朝メシは食ったか?」と言いました。「はい」と私が答えると「そうか。気をつけてな・・・」少し間があり,齊藤師範は「君はアメリカに道場を建てた,岩間からの唯一の日本人だ。皆と仲良くな。」と言いました。私は「はい,ありがとうございました。」と返事をし,師範とお別れをしました。

それが私が聞いた,齊藤師範最後のお言葉でした。

齊藤師範はそのような方でした。他の師範や,本部の師範と異なり,岩間で生まれ育ち,岩間にて国鉄に従事し,開祖の弟子であり合氣神社の社守として生きる事で人生の大半を過ごしました。

齊藤師範は実際に,頑固さはあるものの非常に純真で,質素な生活を送る人でした。数十年来のお付き合いがある弟子達は,齊藤師範が非常に熱心で厳しい指導をする人であったと言います。しかし一旦指導者・弟子の関係から離れると,独特のユーモアを持ち,親切で,温かみのある方でした。そのようなお人柄が,世界中の弟子を惹きつける一因だったのかも知れません。

私と齊藤師範とは,およそ40年間に渡ってのお付き合いでした。私が17歳のとき開祖、奥様、齊藤師範ご夫妻、御手伝いさんの、ごく限られた方のみで過ごす事ができ、私が岩間を去る時まで続きました。それは開祖は亡くなる少し前,療養のため開祖が東京へ行く事に決まった頃でした。私が帰省の準備をしていると,齊藤師範は写真のベタ焼きを私にくれました。それは齊藤師範の最初の本のために撮影された,試し撮りの写真でした。その本は武産合気道第一巻になる予定の本でした。





開祖が東京へ発った後,私は齊藤師範にお別れを言いに行きました。今でもその時の事をよく憶えています。「君は開祖の弟子だ。開祖がお元気な頃は,私は君を指導する立場になかった。この写真を持って行け。この写真はいつか本に使うつもりだ。秋田までは道中時間がかかる。握り飯を用意しておいたから,沢山持っていくといい。」と齊藤師範は言って,私を送り出してくれました。

恐らくそれは,内弟子時代に満足に食べる事ができなかったという,辛い経験から来たものでしょう。齊藤師範は,弟子が十分に食べているかに常に気を配っていました。指導者としてどんなに厳しくても,弟子が飢えていないかを常に気にしていたのです。それは私が決して忘れる事ができない,齊藤師範の別のお顔でした。

私達は齊藤師範は,合気道開祖植芝盛平翁の弟子であり,また開祖のご子息である植芝吉祥丸先生(二代目道主)と孫息子である植芝守央先生(現道主で,三代目道主)の下で,合気会の師範として指導していた,という事を忘れてはいけません。
齊藤師範は時折,合気会とご自身との間に一線を引いているように見えました。また本部道場と,本部の稽古方針については強い口調で批判する事もありました。何人かの弟子達は,齊藤師範の気持ちを理解できずに齊藤師範の元を去りました。本部に対する齊藤師範の強い批判は,開祖植芝盛平翁の技を正しく伝え続けて欲しいという気持ちが現れたものであったと私は信じています。

外国人がその複雑な背景を理解するのは相当難しい事だと私は思います。本部に対する齊藤師範の厳しい言葉を額面通り受け取ってしまうと,その真意を汲み取るのがよりいっそう難しくなります。そのために幾度かの誤解も生じたときもあるくらいです。

齊藤師範は非常に高い地位にありましたので,師範が本部に対して厳しい事を言うと,言葉通りに解釈されてしまい,本当に言いたかった事柄の確信が伝わらず誤解されてしまうことが多かったようです。このような誤解は「本音」と「建前」についてよく理解していれば避けられたであろうと私は思います。                 
組織の中で、自己の地位にすがりつき、上手に組織内を渡ることの苦手な斉藤師範でしたが、誰しも驚く事がありました。それは門下生を育てる力です。   
「卒啄の機」(そったくのき)という禅の言葉があります。これを説明するには,定義を言うよりはたとえ話の方が分かりやすいでしょう。

母鳥は卵を産み,ヒナが育つまで辛抱強く待ち続けます。彼女は外敵から卵を守り,暖め続けます。誕生の瞬間が近づくと,ヒナは殻を破ろうと中からつつきはじめます。その音を聞いた母鳥は,卵の外からも殻をつつき,中から破りやすいようにはしますが,外から殻を破ってしまう事は決してありません。ヒナは自分で殻を破らなければなりません。やっと殻を破ってヒナが出てきても,ヒナは母鳥が殻を破る手伝いをしていたという事は全く知りません。ヒナは自分で殻を破ったと思いながら,外に出てきます。日本の指導方法において,このタイミングは非常に重要です。弟子が殻を破って新たな段階に上がる際,弟子が気づかないように外からも,程よい強さで殻をつついてあげる。齊藤師範は弟子を指導する時に,これが非常に上手でした。

齊藤師範は生涯に渡って,様々な世代の弟子に指導しました。時代が変わり,価値観が変わり,世界が変わっても,師範のどの時期に指導を受けようとも,齊藤師範から教えを受けた弟子である事に変わりはありません。

ピカソは画家として有名でした。画家として生まれ育ち,年齢を重ねるに従い,画風や表現方法は変わっていきました。ピカソの1枚の絵を取り上げ,これがピカソの画風であると言ってもあまり意味はありません。彼の絵,全てがピカソなのです。それはすべての彼の一部なのです。

同じ事は齊藤師範のような武道家にも当てはまります。齊藤師範は開祖ご昇神後も33年間,ずっと合気道の稽古を続け,指導しました。齊藤師範のスタイルと演武は月日を重ねるに従い自然に変わり,弟子に教えてきた事もまた自然に変わりました。齊藤師範から指導を受けた弟子の技を,年代順に比べてみれば違いはあるでしょうが,どれが,ではなく全てが齊藤師範の教えなのです。

齊藤師範は死期が近い事を悟っておられました。齊藤師範はご自身の葬儀に関して,ごく一部の弟子達と打合せをしておられました。奥様と娘さんのために喪服を注文し,ご子息の仁弘師範には,まもなく仁弘師範が着る事になであろご自身の紋付羽織、袴を与えました。

合氣神社大祭の前に,齊藤師範はご子息仁弘師範と内弟子に命じて,道場や庭の隅々まで掃除をさせました。後日、ご子息の仁弘先生が笑いながら私に話した事があります。「親爺は、我々がいくら大祭の為の社掃除や準備を例年通りしても満足できず、車椅子のまま陣頭に立って全てやり直し、よくもあんなに気が付くもんだと驚きました。つまりは自分で勤める事が大切だったのでしょう」と。                                        
大祭後,齊藤師範は菩提寺を訪れ,先祖の墓に手を合わせました。数日後,軽い呼吸障害が出たので,病院で検査をしてもらうことになりました。これが片道の入院になるとは,誰も思いませんでした。

2002年5月13日,一人の偉大な合気道家が,開祖植芝盛平翁の元へ旅立ちました。齊藤師範が私達に残した大きな遺産は,人生そのものと同じくらい大きく,最後の教えはいつまでも記憶に残る尊厳と誇りに満ちたものでした。



「故斉藤守弘師範を偲ぶ:開祖を追い続けた生涯」の訳者をご紹介します。
日本館英文ホームページ(URL: www.nippon-kan.org)の館長コラムの和訳を進んで、自主的にやっていただきました。 

鈴木 博之(すずき ひろゆき)
東北学院大学工学部合氣道部OB。
在学中より塩釜合氣修練道場柴田研聿師範に師事している。現在大和少年合氣稽古会を立上げ、神奈川県大和市で岩間スタイル合氣道の稽古と指導をしている。

 http://www.arkweb.co.jp/~hirochen/aiki/yamatoaiki.html

三浦 好子(みうら よしこ)
東北学院大学工学部合氣道部OG。大学卒業後、理学療法士資格取得。
その後、単身ロンドンへ渡り、スポーツマッサージセラピストの資格を取得。現在も現地の道場にて岩間スタイル合氣道の稽古を続けている。


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