館長コラム◆◆  

■閉ざされた小道

閉ざされた小道
道場と斉藤家を結ぶ小道はブロック塀で遮断された。
幾人の人がこの道を行き交った事か、開祖も、奥様も。

そうです間違いありません。このリンクは合気大祭のレポートです。でもその前に、機会があったら書いてみたいとファイルしていた物事に今回の訪日でもめぐり会い、先ずはこの事から話したいと思います。
私のようにアメリカ暮らしも30年近くなる者にとって、日本での些細な体験は日本で生活する人以上に感動的に心に響くもので、「それがどうしたの?」と思う人が居るかもしれませんが、これから話す高野山での事も、次の合気神社大祭での仁弘さんの事も、私にとっては生きていく事の価値観を考えるとてもいい体験となったからです。
「心、内に開けば自然に行動に表現される」の諺のとおり、自己の信じる事を実行するのは心の中にしっかりしたものを持っていなければ成りません。充実した毎日を、自己に納得する毎日をクリエイトするのはやはり自分自身であり、他人に如何様に言われようと、罵られようと自己の道を歩む者の勇気は、それの出来ない者にとって羨望であり、時には嫉妬であり、地位や名誉にすがり付く者には理解しがたい生き方なのです。毎日を「大いなる自己満足」で暮らせる生活、いいじゃありませんか。与えられた仕事、境遇、環境に身体ごとぶつかって行くたくましさ、そんな生き方に私は感動します。
この文は日本語以外に訳されている為、日本の皆様には常識のような事も書いてありますがご了承願うとして高野山の話から始めたいと思います。

高野山は真言宗総本山金剛峰寺1200年の御山です。開祖生誕の地、田名部市も近く、開祖の菩提寺高山寺も真言宗です。私は帰国し時間があるときは必ずこの御山に参拝する事にしています。

2キロ20万の墓標

今回もいつもと同じ様に金剛峰寺のお参りをしましたが、今回はちょっと驚く事がおきました。お参りを終え山門を出て人ごみの中を200m位歩いた頃でしょうか、「本間さーん」と後ろの方で誰か追いかけてくるのに気が付きました。周りを見渡し「俺、オレのこと?」と自分の鼻を指差しました。我武者羅アメリカ生活が日本より長い私が、山深い信仰の地で知り合いに会うとしたら閻魔様くらいしか考えられません。忘れ物はしてないし、参拝料も払ったし、植樹の寄付もしたしーー。やがて息を切らして作務衣をつけた私と同年輩の方が追いついてきました。近くによってやっと気が付きました。ポスターです。高野山の色々な場所で特に目に付いた「たよってばかりじゃダメ」という真言宗のキャンペーンポスターがどうしても欲しくて、参拝の終わりに俗に云う「ダメもと」で受付の方にお願いしてみたのです。そうすると、若い係りの方に報告を受けた「奥の人」が微笑みながらやって来て「しばらくお待ち下さい。取りに行きましたので」といって筒を用意し、届けられたポスターを丁寧に筒に入れ更に包装までしてくれました。そう、その人、信徒課の茅野様でした。私の名前を知っていたのはお礼をするときに渡した名刺のためでした。

ポスターは金剛峰寺のものです

「いやー追いついて良かった、これはお寺の御念珠です、手元にこれしか有りませんでしたがどうぞお持ち下さい」そう云って御念珠を5個手渡してくれました。その御念珠は高野山奥の院の傍らの930年の霊木で作られたものでした。御念珠にも驚きましたが、山門を出たら前方左右に別れる混雑の中で決してお若いとは云えない方が捜して追いついた事のほうが驚きでした。
金剛峰寺で拝観料を納めますと御接待の引換券が付いています。奥に進みますと接待所(休憩所と云うのでしたか?)が有ります、そこでは一杯のお茶とお菓子で一時の憩いを戴きます。それでも京都や奈良、日光となんら拝観料は変わりません。
私はこの御山がなぜ1200年もの歴史を維持し今日まで多くの人々を引き付けたかを単純に考えました。それは「宗旨など全く分からなくとも、何処の何者か判らなくとも、やさしく人々を迎える心が人に感動を与える」という事でした。
こういった風の流れる御山にはやはり素晴らしい人々が住んでいます。2年前の6月、梅雨時で人も少ないだろうと高野山にお参りした時の事です。早朝のケーブルカーで高野山駅に降り立ったのは私と同行者の2人だけ。駅員と売店の係りの方以外誰も居ないなかでワンチャンだけが随分と多いのです。そこで事件です。売店のおばさんがその野良犬に石を投げつける振りをしたり、箒を持って追い払い、それでも戻ってくる犬たちを幾度も追い返すのです。私は「高野山は白い犬と黒い犬がご縁にあるのではー」と云うと「そうなんですよ、だから早く山に戻さないと保健所の人が来て連れて行かれるんです」そう云って「さー食べたら山に帰りなさい」と弁慶宜しく箒を振り回すのです。そして「弘法様とお犬の関係でよく捨て犬があるんです。保健所の人だって仕事ですし、観光地でもあるので仕方なく捕まえるのだけど、昼は山のなかでジッとしてなさいと追い返しても聞いてくれないんです。」私は心の中で「おばちゃんゴメン」と尾っぽを巻いてその場を立ち去りました。
その旅ではもう一つ驚く事がありました。高野山からバスに乗って竜神温泉に行ったときです。ワンマンカーのシステムを理解できず降車まぎわに「幾らですか?」といって整理券を見せました。金額は忘れましたが云われたとおり2人分をジャラジャラと入れて降りました。温泉に浸かりさて一杯となったときに仲居さんの声「お客様はバスで高野山から?運転手さんが玄関でーー」と優しい声。人間はまず自分の事から考えるもの。忘れ物はないし、金は云われたとおり払ったし、と玄関に出て行きました。そこには2時間ほど前に乗ってきたバスの運転手さんが帽子をとって立っているのです。「先ほどの料金、お一人30円多く戴きまして、60円をお返しに参りました」ビックリする私に「どうも申し訳ありませんでした」と最敬礼をするのです。終着で気が付いて自分の車で返しに来たそうです。名前も聞く事も出来ないほど感激し、何か言おうとした時には闇に消えていました。
私は、この高野山での経験をいつか皆様に紹介したいと思っていました。勿論、高野山には警察も消防もあり、病院も、当然の様に葬儀屋もあることでしょう。地上の楽園ではありません。しかし実に多くの人々が信仰に包まれた生活をされていることが旅人の私にさえ感じる事が出来るのです。信仰とは線香をあげることでも木像の前で明日のご利益を願う事でもない事を知っている多くの善男善女が、其々の心の中に信仰を持ち、日常生活で実践している姿に、ともすると希薄な人間関係を感じながらアメリカ生活を送る私にとって、目頭が熱くなるほどの感動となるのです。高野山は世界遺産の認定に向けて関係者の方々が努力されているようですが、ここには古い遺跡ばかりではなく、私達がいま何処に消えてしまったか少々不安になっている「日本人の素晴らしい部分」も遺跡にならず立派に存在している事を私は世界中の人々にお知らせしたかったのです。

さて岩間の合気神社大祭の話しに入りましょう。今回の岩間訪問は故斎藤守弘合気道9段のご命日法要の出席、岩間合気神社大祭参拝の二つの目的で訪問しました。


春雨の合気神社
岩間の訪問は、仁弘さんの岩間神信合気修練会の発足式に参列させて戴いておりましたから2ヶ月ぶりです。このHPに掲載されている発足式の報告「野に立つ」をリンクしてお読みいただくと今回のこの報告もより深く理解できると思います。この報告は「野に立つ」の続編と言うべきもので、彼のポジテブな生き方をこのコラムで紹介する事によって岩間にご縁のある道友に「何故、どうして、何があったの、私達はどうしたら良いの」などの疑問、不安がいくらかは穏やかに成る事でしょう。この記事は日本語版にも掲載されますが英語圏、ポルトガル語圏、スペイン語圏などからのアクセスが数の上では圧倒的に多く、少しはお役に立っているようです。

昔、岩間の町で故斉藤守弘師範は、「ナポレオン馬上で3時間、岩間のモウちゃんゴロ寝で30分」といわれていました。仁弘さん、当然の様に父親譲りの働き者。自宅を大改築中とあって現場を睨んで工事を確認し、大工に指示を出し、法事の打ち合わせをし、絶え間ない訪問客の応対を手際良くこなし、そういった事をしながらも茶菓を勧め私達の長旅を癒してくれました。一度に幾つもの仕事が同時進行し、それをテキパキとこなし、いやーよく働く事。

4月26日、家族友人だけで行われた命日法要は仁弘さんの新道場、胆練館で行われました。法要の後の直会では「アッ御父さんはこっちの方が良かったか」と据え付けられた御膳に焼酎のグラスをのせ、集まった人には料理や酒を振る舞い、長く座っていると腰が痛かろうと座布を折って来客に気を配り、道場が寒いのでは、と云って窓を閉め、どんなに忙しくとも母親を気づかう。わずか数ヶ月前に世界を驚かせた仁弘さん、心の中には多くの事を抱えながらも斉藤家の家長として父親の命日法要を立派に勤めていました。


親族のみの法要。仏前の守弘未亡人
翌朝は朝6時30分からの朝稽古、海外からの内弟子や通い弟子が30分も前から集まり、掃除、鎮魂のための準備をし、仁弘さんの指導を待ちます。気合の入った稽古が2時間。稽古後、日光の新緑見物に行くと云う私を「ドライブしますよ」といって片道2時間半余りの道を送ってくれました。忙しい仁弘さんにとって貴重な時間であったはずです。


内弟子の伝統朝食
トーストとジャム、それでも笑顔が絶えない。

朝稽古 初心者にも丁寧に、仁弘塾長

そして29日、合気神社大祭の朝 合気神社横の仁弘さんの家には多くの人が挨拶に訪れ、応対に応じる仁弘さん、片手を挙げ「よッ」と声を掛けたり、握手をしたり、飛び出していって最敬礼をしたり、自己の門下生から父守弘の御弟子さん、後援者の方々まで多様な訪問者達に囲まれました。
やがてネクタイを締め直した仁弘さんは「あまり遅く行くと弁当がなくなるぞ」と皆を笑わせ大祭の記帳所へ。途中で出会う方々には積極的に歩み寄り最敬礼をし、握手。やがて仁弘一門は道主の控えの間の外に威儀をただし整列、道主のお付の方が少し慌てて中に消えやがてガラス戸が開いて道主が現れ、いったん全員を見渡した後、「この度はおめでとうございます」という仁弘さんの挨拶に、道主は正座をされ満面に笑みを浮かべて返礼をされました。道主のご対応もご立派でしたが、仁弘さんの取った行動も腹心のない実に爽やかな物に見えたのです。事有るごとに「斉藤家が植芝家から受けた恩義は忘れる事はできない」と言っている通りの心を、仁弘さんはこの時しっかりと公の場で証明したのです。
こういう事を書きますと何故、道主に不満がないのに合気会から分かれてしまったのか疑問を持つ人も多いでしょう。でもその訳は簡単です。それは仁弘さんの合気道探究心からでしかありません。その探究心を純粋なものとする為には、偉大な父親守弘の代より引きずり、付きまとう、「諸々の事柄」との決別が必要と決断したのでしょう。自己の心に禊の終えた仁弘さんだからこそ、清廉潔白、爽やかな心で合気神社大祭に参拝できたのでしょう。

大祭に集まった人々

記帳をする仁弘塾長


道主に挨拶する仁弘塾長

道場参拝の仁弘一門

道主に挨拶を終えた仁弘一門は道場に参拝、神社前の自宅のガラス戸を大きく開き、往来する人を眺めながらの直会。大きな祝鯛のお造りに様々な季節の料理。
その時です。「アレ、仁弘さん飲まねーのヶ?」そんな声が湧き出して一同動きが止まってしまったのです。そうです、なんと足元に置いた葡萄ジュースを飲んでいるのです。彼を知る人にとっては「どっか悪いのヶー」の一大事。本人少し照れながら「俺が先に酔っちまったら仕方なかっぺ、少しはアルコール分入ってるけど」と云って我々には酒を勧めるのです。テーブルの遠くの方に居る若い連中に「オーイ食べてっヵ!しっかり食べろ!酒は勧めないけど一人で飲れよ」と声を掛け、道行く人が挨拶をすると直ぐに挨拶を返し、「ヤー」と云って訪れる人には席を作ってやり、遂にはテーブルが足りなくなり新築中の足場を外し、ビールケースに乗せる程の混雑に成りました。若い連中に云い付け、杯を幾つもお盆に載せ、外で立ち止まり挨拶する人に御神酒を振舞い「おめでとう御座います」と気軽に声を掛けるのです。私は新潟の何とかという旨い酒を飲みながら「ヨッ、仁ちゃん、其れでいいぞ、男だぞ!」と胸の中で叫んでしまいました。


老いも若きも仁ちゃんの処はいつも盛り上がる
「今年の赤飯少ないなー」の声はここでも

イヤー! と云って気軽に立ち寄られた
小林保雄師範と

仁弘さんが発足式の日にポツリと私に言った事が忘れられません「本当は親爺がやらなきゃ成らなかったのに、自分はサッサと死んじまってーーー」。でもね仁弘さん、どっちに行ったて「守弘の倅」は注目の的、箸を落としたって騒がれる。そんな世間の騒ぎにお構い無くさっさと自己の道を歩まれた仁弘さんの生き方は、しがみ付いて毎日を生きている私にはヒーローに見えるのです。自己の生き方を貫くという事は両刃の剣、「わがまま、自分勝手」酷いのでは「世間知らず」などとまで罵られ異端児扱いされたりする事があります。
そんな事は百も承知で独立した仁弘さんに「自由な武道家」としての「大きな可能性」を私は期待するのです。


写真提供、斎藤仁弘先生

つい数年前の事です。守弘師範が病気になられる前の頃まで、岩間には30人を越える内弟子が、それこそ足の踏み場もないほど寝起きしていました。その殆どは外国人です。滞在費、指導料などの束脩も決して安くなく、守弘師範の「ダメ!」の怒鳴り声に明け暮れ、右も左も分からない異国の地で、異国の武道を修める事は大変な事であったはずです。それでありながらも多くの内弟子が優秀な指導者として育った陰には守弘師範の技の指導力は勿論ですが、人情味のあるきめ細かな優しさが言語や習慣の異なる人々にも通じたからこそでしょう。
「岩間の合気道」が世界に大きく発展したのはなんであったのかを考える事無くして、これからの岩間の合気道の発展は勿論、維持すら難しいでしょう。守弘師範の功績をよく研究する事無く、あれほど厳しくやっても守弘師範の下に人が集まった事を今後どの様に活かしていくかを考える事無く消し去るのであれば、私達は何か大切な「岩間の歴史」を歪めて、後世に伝える事と成るような気がするのです。開祖亡き後の岩間の歴史から「斎藤守弘」を削除する事はできないのです。
世界的合気道関係出版社である「合気ニュースの出店を断る」と云う今年の大祭での行為は「斎藤商品」の追放目的以外なにものでもなく、この行為はIT時代の先端を行く「合気ニュース」に挑戦状を突きつけた様な愚行と言えるでしょう。お札や掛け軸などの偶像的なものが良くて、開祖の御入神後30年以上も岩間に実在し、自己の指導技法を完成した人物のビデオ一本販売できないと云う事に疑問を感じる者は私だけではない事でしょう。個人的な感情をむき出しにして、全体像を見失っているように感じるのです。私にはとてもこれが「合気会の方針」には思えないのです。
歴史の事実が意図的に改ざんされたり、空白となり飛んでしまう事が許される様では、己の組織のタガを自ら緩めている様なもので、一見こういった事を進言し実行する人は忠孝の人物に見えるけど、長い将来は組織にとっては相応しく無いと思うのです。こういった人物の助言を信じて、国を、立場を失った歴史の主役は沢山存在します。
斎藤守弘師範の人間を育てる才能、しかも常識年齢にある外国人を育てる事の才能はカリスマ的なものと云えます。また世界に向けて多くの出版物を出し、ビデオを制作、その仕事量はどの合気道師範も及ぶものでは有りません。その事実を認めずして、どうやって「世界の岩間」を発展させる事ができるのでしょうか。
岩間に縁のある人なら幾度も歩いた、守弘師範の家と道場を結ぶ小道をブロックで塞ごうと、岩間道場のトイレを水洗にしようと、道場の雨漏りを直し立派な敷石を敷こうと、樹齢40年以上はする大ツツジを動かしてまで庭を整えようと、合気道新聞や公式HPで前例がないほど新道場体制を掲載し、はたまた大祭の日、右翼の街宣車宜しく大スピーカーを備えて新道場体制をアピールしようと、空しい謀にしか私には見えないのです。
それほど一切を変えるのなら、長年本部で否定してきた、岩間名物、木剣や杖の稽古はどうするのでしょうか。これも止めるのでしょうか、それとも合気会ご用達の木剣、杖の型でも創るのでしょうか。
これまで築き上げた岩間の世界的知名度を誰が責任を持って蘇らせることが出きるのか、新体制が注目を浴びるのは当然でしょう。

閉鎖された小道

新体制指導者の中には海外の指導の折「もし私の技が間違いというなら、私を批判しないで下さい。それは開祖が間違っていたのですから」と公言して憚らない、日本ではとても発言できない事を平然とする方もおられます。
故斎藤守弘師範は「もし私の技が間違っているなら、開祖に申し訳なく思っています。なるべく開祖から習った技を研究して皆様に残したい」この謙虚さが岩間を「世界の岩間」としたのです。どちらもビデオとなって残っています。今や世界は狭く、速く、合気道に関する情報は日本人の知らない事までが一瞬に飛び交っているのが現状です。最近海外に流れている「仁弘君があんな事をしたので私達が仕方なくやる事になった」などの発言は決して新体制指導部にとっても合気会にとってもプラスとはならない事でしょう。師範や道場に縛られる日本人門下生とは異なり、海外の合気道家は自由であり相互の交流も豊富で情報もあり「子供だまし」では納得できないレベルにある事に充分配慮して発言すべきであり、世界のコミュニケーションは英語、スペイン語、ポルトガル語が圧倒的に多い事をもっと認識すべきでしょう

大祭の朝、数人の若者が道場を遠くに眺めていました。「変わったなーーー」「想い出が切り取られたみたい」ただ何も云わず立ち尽くす人も居ました。私は言葉もなくつまらない冗談で切り抜けました。「あのね、昔アラスカにロシアが踏み込んできて、ビルや家々を片っ端から赤く塗ってしまったって。慌てた知事が大統領に連絡したらなんて答えたと思う? それじゃー塗り終わった頃、コカコーラと白で書いとけだとさ」。


手伝だってくれた仁弘門下の若者達

立ちすくんでいた若者達よ、そうだヨネ。青春を掛けたんだよね。でもネ、物は考えようです。武道が人を創るのではなく、人が武道を創るのです。揺ぎ無い信念を持って稽古に励んで下さい。

岩間にご縁のある世界中の皆様、あった皆様。仁弘さんは新しい明日に向かって、明るく大らかに毎日を過しています。小道は閉ざされたけど、仁弘さんの穏やかな心の奥に秘めた信念は何者も閉ざす事は出来ない事でしょう。

                        平成16年5月10日記
日本館 館長 本間 学


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