館長コラム◆◆  

この記事は日英語で日本館総本部HPに掲載されるほか、各国AHAN活動家HPでも翻訳され掲載されます。この記事は在米日本人の人道支援活動家の立場から執筆されています。
(編集部)

東日本大震災
発生100日後の米国デンバーより
 

 3月11日、日本の東北太平洋側を襲った大地震と大津波、多くの命が失われ、その被害の甚大さから歴史に残る大自然災害といわれています。被災された皆様には心からお見舞い申し上げます。また救助活動に献身された多くの関係者の皆様、ご苦労様です。
 米国在住の私ですが、世界中からお見舞いや消息確認の連絡を戴き感謝いたしております。私の出身は東北ですが日本海側で、幸い被害はなかったのですが暫くは実家と連絡も取れず心配しました。
 
 この報道を私が知ったのはフィリピン指導の帰国前夜、マニラのホテルの日本語テレビ放送でした。報道はホテルのスタッフにも話題となっており、レストランに入るとスタッフの方々が「大変な事だね、貴方の家は大丈夫か」と話しかけてはCNNの実況報道に見入っていました。翌日、成田の飛行場に到着、空港ビルデングの天井などの空調設備に被害が見られ、出国手続き後、ビル内で足止めとなった搭乗客のための簡易ベットや毛布が各所に積まれ, フライト予定時刻も大きく狂っており、お土産店やレストラン、航空会社ラウンジも食材の配達やスタッフ通勤が出来ず閉じられたままで、一目で地震の影響が大きい事は理解できました。
 予定を変更して日本に留まり、状況を確かめようと思ったのですが、余震などの異常が拡大すればさらに混乱が予想され、新たな帰米航空券入手に困難が生じるとの航空会社からの助言もあり、そのまま予定通り帰米する事にしました。後日、多くの外国人が福島原発の事故から逃れて日本脱出を図り、幾つかの外国航空会社は自国民優先の処置を取ったと報道で知りました。
 
 米国在住とはいえ被災国の国民として非常に複雑な思いで100日を迎えました。この間、現場からの悲惨な報道、ネットを通して瞬時に入る情報。米国日本館の旅行で、多くの米国人と供に訪問したときのある思い出の地が「壊滅的」という表現で映像となって幾度も放映されました。とくに私は日本海側とはいえ同じ東北の出身であり、取材に答える被災者の絶望に満ちた言葉の「東北訛り」が益々身近なものに思え大変辛いものでした。
 また日本館総本部のあるコロラド州の小学校は3,4,5月はアジア学習の時期で、毎年千人余りが日本館総本部を訪問してくれるのですが、書道のデモで書いて欲しい漢字は「津波」「地震」が圧倒的であった事から考えても、米国内でもあらゆる年齢、階層の方々にかなりの衝撃で伝えられたのでしょう。
 
 しかし、そういった悲観的な現実のなかで米国メディアに早くから取り上げられたのが「被災地における日本人の姿」でした。瓦礫に足を挟まれ救助された老婆が「どうもすみません、ご迷惑をお掛けしました」との最初に発した感謝と謝罪の言葉がたちまち米国人記者の驚きのコメントとともに米国中に流れ、様々な思いでこの老婆の言葉の意味を考える結果となりました。「そんな馬鹿な」「なぜ、スミマセンなの?」「迷惑をかけたなんてーー」多くの人はそう感じていた様でしたが、私はこの老婆の発した言葉こそ「日本人そのものではないか」と熱いものを感じました。
 こういった報道も幾度も流れました。「日本は不思議な国だ、人々は冷静で暴動や略奪など発生せずーーー」実際、この報道の通り、画面から映し出される被災者の方々は恐怖と不安を述べても、大声で救援の不行届き、復旧の遅れや手違いを罵る事もなく、支援物資を受けるために整然と列を作り、支援機関とは別に被災者同士が水や食料の確保、衛生や安全の確認などを組織的かつ積極的に行動している姿を、レポーターや解説者は驚きと賛美で伝えました。 
私はこの報道に接するたびにテレビの前で「そうだ、そこが日本の心だ。これが日本人の良さだ」と立ち上がって拍手をしていました。
 複雑な思いを米国人に与えた報道が「津波警報を出し続け亡くなったある役場の若い女性職員」の事でした。「責任感の強い女性」という一言では評価しきれない日本人としての姿が浮かんでくるのです。映像に残された迫り来る津波、その映像とともに冷静に避難放送を繰り返す女性の声は、正に天の声であり、この天の声によって実に多くの人々が救われたのでした。米国民にとってはエンジェルの声と思えた事でしょう。
 こういった報道も目を引きました。ある地方紙の輪転機が大きな被害を受け発行が出来なくなった、そこで記者や編集者は手書きの壁新聞を仕上げ情報を流し続けたとの事でした。スタッフ自らも被災されたそうですが、公共情報源としての使命感がそれを可能にしたと語っていました。後にこの新聞はアメリカの有名博物館の収集品として保存されたと聞いています。「どうして収集されたかな、当然の事をしただけ」となるのが日本人の一般的考えでしょうが、
この行為を驚きで評価する国もあるのです。私の生徒が地方紙のコラムニストですが、その彼が新聞記事の切り抜きを持ってきて「素晴らしい事だ」と感激していました。

 この大震災において被災者の皆様や支援にあたった多くの皆様の見事な日本人的な対応と行動は、米国のみばかりか世界中の人々に大きな感動を与えてくれました。
 海外に生活する我々日本人も、日本人である事を再認識し、誇りを持つ良い機会を与えてくれた事に感謝を抱いているのは決して私だけではなく、海外同胞全てが感じた思いでしょう。深く感謝しております。


3月20日亜範日本館食事支援でデンバーレスユーミッション内に張り出したポスター

 さて、これから述べる事は、誤解を生じかねない要因を秘めていますが、冷静な今後の支援のあり方を考える上で避けて通れない事なので書きたいと思います。
 震災発生後、米国911の航空機テロ中継を思い出させる、あの大迫力の実況報道が影響したでしょうが、アメリカでも「日本支援ブーム」が沸きあがりました。メディアの力には恐ろしさすら感じました。しかし、私が主宰している日本館総本部の人道支援団体AHANインターナショナルは震災の数日後、空母群を緊急出動させてくれた米国政府に対して、感謝の意味を込めたポスターを館内や直営のレストランに掲げ、また月例の路上生活者食事支援の場であるデンバーレスキューミッションの食堂にも掲げました。
 また日本館総本部に掲げてある米国旗を日本国旗に変え、半旗として1ヶ月間揚げました。国旗掲揚塔を建てて17年になりますが、日本国旗を掲揚したのは半旗であれ始めての事でした。この大震災に関してAHANインターナショナルが行なった事はそれだけで、いつも通りアジアの孤児達に米を届け、デンバーの路上生活者に食事をサービスするだけでした。義援金希望者は公共機関にするように薦め、義援金箱などは置きませんでした。
 過去に世界各地で発生した大災害の例から、異常なまでの支援、救援風が一斉にそちらの方向に向く事によって、これまで支援を必要としていた方々の落ち葉まで飛ばされてはならない事を、過去の支援経験から十分に承知した上での行動でした。
 国や国連などの支援機関とは別に、民間の企業などの支援は企業イメージの最も高いところに贈られるのは当然の事であり、しかも限られた予算の中から支出されるのであって、その歪みはそれまで支援を必要としていた世界の人々に及ぶのです。
 この問題に対しては、過去のスマトラやハイチの大地震や津波災害時と変わらぬAHANインターナショナルの指針に沿って今回も行動しました。
2005年に書いた命の価値と支援の差 日本館AHAN活動の指針」を参考にしてください。

 震災発生後、多くの団体からコンサートやバザー、Tーシャツの販売等あらゆる支援協力要請が舞い込みました。私は大きな日本レストランを経営している関係上、寄付や食事の無料券、無料ケータリングなど「脅迫的」ともいえる支援要請に多いに悩みました。「貴方の店は素晴しい、我々はいつも利用し、その評判を多くの人に伝えているーーだからーー」と始まるメールや返信封筒同封の手紙が15通余り、メールも数え切れないほどありました。いきなり支援キャンペーデザイン入りのブレスレットやテーシャツを大量に持ち込んで「これを販売してくれ、貴方も同じ日本人でしょうからーー」と云う押し売り同然の者も現れました。販売する素材は無料ではありえないわけで、「シャツにプリントして最低でも一枚5ドルは掛かる。さらに15ドルの利益を加えて一枚20ドル、そんな金があったら今着ているシャツで我慢して20ドルそのまま義援金とした方がはるかに良いーー第一貴方が始めたTーシャツ販売をなぜ私がやるのですか、ここに大量に持ってきて「お前が売れ」では貴方の義援の心は何処に存在するのですか」と私の考えを述べて引き揚げて貰ったのですが、その軽蔑した眼差しは「支援特需」を逃した悔しさに溢れていました。確かに共通意識を持って、その啓蒙シンボルとしてとの価値はあるかもしれませんが、これがユニセフや公共支援機関のオフィシャルなものであったら別として、何処のどんな団体個人か不明で、過去の活動実績もない即席慈善活動家の思いつきに翻弄される善意の人々こそ迷惑な話です。「シャツも買えるし義援金も集まる」云うなれば「一石二鳥」の美談に錯覚しますが、シャツは我慢して「一石一鳥」がはるかに良いし、ついでに販売者も儲けてという「一石三鳥」を企てる不届き者を蔓延らせない事にもなります。
 そしてもっと不快な思いをしたのは、「他の店では売り上げのパーセント寄付キャンペーンをやっているが、なぜお前の店はやらないのか?」とまで言い寄る者まで現れた事でした。このキャンペーンをタイミング良く展開したある日本食店はメディアの脚光を浴び、結局は売り上げが伸び、約束のパーセントを寄付しても増収になったそうですが、米国は寄付した金額は納税控除となり、店にはなんら影響が無いわけで、確かに被災者にお金は廻っていくけれど、別に感動するような行為ではなく、慈善の響きを持つ錯覚に過ぎません。私は事業主として個人的な寄付はしましたが、店ではなんのキャンペーンもしませんでした。
 亜範日本館の日本レストランも「Dine at Domo and Feed the World」 というキャンペーンを長くやっていますが、これは亜範日本館インターナショナルの運営費を捻出するためのソーシャルビジネスであり、利益のほとんどは学校 建設、食料、教育機器、医薬品支援、などに使われており、この精一杯のプログラム内容にさらに日本支援を振り分けるには他国の支援を削らなければいけな かった事情もあるのです。亜範日本館の支援活動が拡大する一方で、私の好きな寿司や焼肉などの外食を我慢する回数が増えてきました。一人分一回の外食でバングラデッシュの子供50人が3日間食べれるのです。        
 ともすると集めた義援金の額に話題が集まりがちですが、多少の痛みを感じつつの献金と、腹いっぱい食べて飲んでの献金では金額の帳尻は同じでも、義援金の重みが違ってくると思うのは考えすぎでしょうか。
 アメリカでは「Hop on the band wagon」と言うようですが、コンサートの人集めや販売促進を兼ねて、チャンスとして単純に活動をした方々と、真心から支援をされた方々が混同し、互いに競うように綱引きをし、義援活動そのものの腰が弱ってしまった感が見られました。そして100日が過ぎ、支援騒ぎのあの喧騒は何であったのか、そんな事があったのか、と思うほど目の前から消えてしまいました。
 今回、真心から支援に立ち上がった米国の皆様には本当に感謝しております。支援ブームも収まりだいぶ静かになりましたが、避けては通れない大自然災害と今後どのように向き合って行くかを学ぶためにも、長い年月を必要とする今回の災害復興に注目し続けて欲しいのです。それが多くの犠牲になった方々や、全てを失い再起しようとする人々に対する鎮魂であり、励ましであると思うのです。
. 今回の支援ブーム、こんなに積極的な日本人や日系人が私の周囲に生活していたのかと驚くほどの活躍でした。私は30年以上様々な支援、奉仕活動をしてきました。しかし 残念ながら公共奉仕の場で米国人と汗を流している同胞の姿には出会ったときがありませんでした。ですから今回の震災支援に出現した多くの同胞に内心驚き、 感動すら有りました。ところが、日本支援も静かになった頃の五月末、米国内で大きな竜巻の被害が発生しました。しかし同胞からは太鼓の音一つ聞こえてこなかったのです。
 震災時、米国内で巻き起こった「同胞の熱狂的義援金集め」に励んだ人々は何処に消えてしまったのでしょう。米国が震災発生わずか3日で動き出した 「オペレーションTOMODACHI」に感謝する「ARIGATOU」の行動は私の知る限り在米日本人コミ二テーからは聞こえてきませんでした。
「真なる愛国者とは良き国際人でもある」とは良く言い切った言葉であると思います。今回、支援にご尽力された同胞の方々は大変なご苦労があった事は高く評価しますが、我々は支援されている側の国民であった事を忘れてはならないと思います。

 今回の日本震災支援ブーム、社会貢献や支援啓蒙などの大きなメリットもあった事でしょう。いずれにせよ、多くの人々が支援に立ち上がったこの時に、少しだけでも良いから世界を見渡して欲しいのです。世界には自然災害以外にも貧困、環境破壊などで最貧困生活を余儀なくされている人々は沢山存在し、あるいは地域紛争によって多くの人々が殺戮され、悲しみのどん底でなんら支援の手も届く事なく「生きるだけの、取り残され人々」の存在も忘れてはならないと思うのです。今回の日本震災支援の熱気をほんの僅かでも良いから温存継続する事で、世界の多くの人々が救われることを知って欲しいのです。
 日本館総本部AHANインターナショナルは救出後「どうもすみません、ご迷惑をお掛けしました」と発した老婆に代わって、そして被災された多くの方々に変わって、支援してくれた多くの国々の方々に感謝の行動をする事も被災者支援の一つと考え、これまで通り地元デンバーや世界各国での支援を続けています。
 尚、日本館総本部AHANインターナショナルは限られた予算のなかで、長い活動だけでも20年以上の様々な継続支援活動を地元や世界各国で続けています。こういった活動資金はすべて日本館独自資金や支援国でのソーシャルビジネスの展開による収入を財源とし、他財団の基金や篤志家などの支援に依存していません。

 最後に被災された方々に、私の体験を通して支援の言葉を贈らせていただきます。
 私は英語力も金も無く、川原の草と難民生活保護者が捨てる配給品を唯一の食事とし、しばらくは橋の下を寝場所とした時もあります。まったく異なる環境で、頼る人とて無いなかで米国生活が始まりました。難民の方々や、生活保護者の様に手厚い米国の支援も無く、大手の駐在社員でも、余裕ある家庭の留学生でもありませんでした。そんなスタートから38年、米国生活で常に心の支えとなったのは「苦しい時こそ、悲しい時こそ、孤独な時こそ、逃げ出したい時こそ、弱者を思い、助け合い、分かち合う」と云う思いでした。
 今一番辛く苦しい立場にある被災された皆様にはいささか酷な話ですが、貴方が分かち合う事のできる、数え切れないほどの苦悩と悲しみを持った、様々な人々が世界中に存在する事に目を向けて戴きたいのです。皆様に暖かい眼差しを向けているのは支援者だけではありません。苦境を克服するために努力を重ねている多くの国々、そして人々も「立ち上がる日本の姿」を期待し、そのお手本とすべく見つめています。
 皆様が苦難を乗り越え、復興に立ち上がる姿は、己よりさらに苦しみ悲しむ人々に夢と希望を与え大きな救いとなり、あなた自身の救いともなる事でしょう。

 あれから100日が過ぎ、落ち着き始めたからこそ様々な問題も浮上してきましたが、被災された方々は、悲しみを抑えて、不自由な避難所内で様々な工夫を凝らし、組織だって助け合う姿も日本人の素晴しいイメージとして報道されています。長きに渡る海外生活で、ともすると忘れかけてしまう日本人のあるべき姿を、被災者の皆様は苦しみのどん底から我々に、そして世界の人々に見せてくれました。私たちは皆様によって勇気を貰い、救われました。そういった皆様だからこそ必ず世界が驚く復興を遂げると信じています。これからも苦境に立ち向かう勇姿を世界の方々に発信くださる様お願いするものです。
 どうも有り難うございました。


                         平成23年6月18日記
日本館総本部
AHANインターナショナル
                 創設者 本間学 記

      

 


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