館長コラム◆◆  

イランで見つけたTea Pot    
   イランイスラム共和国を訪ねて
 


私は宗教家でもなく、政治家でもありません。あるいは何らかの反対や保護団体の活動家でもありません。あえて言ったら45年以上も畳やマットを叩き続け埃を出しているだけの合気道家に過ぎません。
 私がイランに行くと話したら「えッ?」とくる。正直、イラン訪問前の私の周りにあった情報は極めてネガティブな事ばかり、TVから流れるニュースは核兵器だ、ミサイルだ、人権だと賑やかでした。
 日本で最も有名なガイドブックにすら、旅行者は目立つので夏でも半そでのシャツは避け長袖着用、色は白が無難。出来たらジャケット着用、ネクタイはしない。女性は現地女性の衣装の着用を勧める、それでもバックパックなど背負っていたら旅行者とバレるので現地のショルダーバックを購入すると良い。痴漢が多いので気をつける。女性一人で歩いていると「好奇な目」で見られるのでなるべく同じ旅行者を誘ってグループで歩く。ポルノ、アルコール類は一切禁止。それどころか女性の髪が出ている写真つきの雑誌すらダメ。写真撮影は出来ないほうが多いくらいなので気をつける。取り上げてカメラを破壊される恐れあり、機内に入ったら服装検査があるかもーーーー。私はなんと恐ろしい国に行くのかと考えながらトルコのイスタンブルでイラン行きの準備をしました。「覚悟を用意した」こっちのほうが表現的には良いかもしれません。余計なものは持たない。それまで撮影していたチップはすべてCDに取り空っぽに。私の出版物も、今回訪れた国々のパンフレットや領収書、必要以上のバッテリー、疑問を抱かせるような小物一切、半そでのシャツ類や地味な色以外のパンツ。個人使用の常備薬すらすべてイスタンブルのホテルに預けて「非常時」に備えました。
首にはしっかりとIDタッグをと云いたいところですが「首落とされたらIDも落ちるよ」と物騒な冗談を「もしかして」と受けて小物入れに隠し、めったに着ないまだ樟脳の匂いの残る夏物スーツに決め込んで(もちろんネクタイはダメ)飛行機に乗り込みました。しーーーしかしです。

 しかし実際に私が最初に目にしたイランの方々は、ガイドブックからの事前情報とはかなり違うものでした。なにしろ、スーツに決め込んでいた私はイミグレーション手続きの列の中でジャケットを脱ぎ、さりげなくシャツの袖をまくったほどでしたから。私の最初の予期しないカルチャーショックでした。 

 「あれー俺間違ったかな」私だけが浮いているではないですか。男性客は気軽な半そで姿が殆ど、女性はマーントーというコートドレス風の衣装を着けていますがテヘランに近くなるまで脱いでいる方も多いようでした。この衣装も膝より上程度の短い物が多く(夏である事も理由でしょうが)下にはジーンズをはいている人もいました。スカーフも頭に被らず、首にスカーフとして結んでいる人も多くいました。チャドールと言う黒い布で頭から足首まで全身を覆う衣装を着けていたのは年齢の高い数人の女性だけでした。もちろんテヘランが近くなると女性たちはマーントーを着け、しっかりとスカーフを被り直しましたがそれは長旅で乱れたブラウスを整えるような自然なものでした。男性は、髪はサッパリとし、シャツやズボンはパリっと清潔で、汚い素足にサンダル、毛ムジャラの足に襟が破れたようなテーシャツで世界を通す、先進国といわれる国々の自由人なんかよりはるかに好感が持てました。



ホテルの窓から市内を見る。

夕方の交差点

イミグレーションの担当官はチャドールを被った女性、見慣れない人には驚きでしょうが、これもイスラムの国ではなんでもないこと、キリスト教国でも尼さんがもっと大きなツバつきの衣装で体を隠しているではないですか。イランではこれが宗教的民族衣装といえます。別に奇異な事でもなく、民族衣装を日常着用する国々はいくらでもあり、こう云った事を取り上げて「女性の自由がーー」などと騒いでいたら世界中を相手にしなければなりません。伝統や宗教、あるいは単純に国のルールとしての事であり、似たようなルールを持つ国はほかにも沢山あり日本も例外ではありません。校則一つとっても、黒の学ラン、セーラー服。坊主頭、髪型の規則、スカート丈は何センチ、シャツはしっかりとパンツの中に入れボタンの2たつ開けはダメ、校則違反のひどい者は退学。やっと卒業したかと思うと就職活動は紺系のリクルートルック、夏はクールビズ、葬式は黒に黒のネクタイ、結婚式はーーー別に自由な服装で良いはずですがそれが出来ない、許されないのが日本で「常識を欠く」というレッテルすら貼られてしまいます。



税関検査はあって無し、イラン人と思われる人たちは素通り、外国人は荷物を検査機械に通し、係官はあさっての方向を見て手で誘導するだけ。余りにも楽であったため、逆に私は入ってはならない所に忍び入る飼い犬のように用心深く通り過ぎたけれど、考えてみればこれまでの海外訪問で一番緩やかな通関であったかもしれません。誰だ、隅から隅まで調べられるなどとガイドブックにレポートした奴は。もっとも私は世界で一番出入国に厳しい検査をする米国で生活するためにそう思えるのかもしれませんが。
 出迎えに来てくれたファシャードさん。イラン国内では男の人も何らかの民族衣装かと考えていましたが、お隣トルコとなんら変わりない気軽な服装。
海外でよく見かける新興都市風の町には、さすがギスギスしている米国との関係でアメリカ車は見かけないのですが、フランス車、日本車も多く、黄色いタクシーも頻繁に走り、オートバイや自転車が共存して混雑するという事もなく整然としていました。最もガソリンの供給がうまく出来ず(そうです産油国でありながら)一日3,3リッターの配給制、リッター12円、高くなったとの不満も聞こえたが日本の140円台に比べたら話しにならない金額。イランの方が面白い事を話してくれました「つい最近までテヘランは世界で一番大きな駐車場でした。車が多くて渋滞ばかりでしたから。しかしガソリン供給の関係で多くの人が運転を自粛し、公共交通を利用するようになってテヘランの動きがスムーズになった。それに公害が30パーセント減少し空気がキレイになりましたよ」ナルホドの効果です。世界の先進国が穀物価格の高騰を招きながら、食料であるトウモロコシに莫大なコストをかけてガソリンを求めるなら、イランのように配給制にしてみるのも面白いと思うのです。


レセプションには米国の旗が無い

私の滞在したホテルはあの人質事件の中心となった旧アメリカ大使館のすぐ近くにある革命前からの由緒あるホテル、格調高いロビー、フロントには世界各国の国旗が飾られていましたが米国の旗だけは見当たりません。日本人のパスポートを預けて(チェックアウトまで預けなければならない)さり気無く尋ねました「アメリカの国旗は?」担当の紳士たちはニッコリと顔を合わせ流暢な英語で「その旗なら私たちの心の中に大切にしまってあります」実に意味深い回答をしました。それはポジティブなのかネガティブなのか判断は出来ませんがフロントの棚に米国の旗が無いという事は「けしからん」ではなく、やっぱり「寂しい事」と私は考えました。


道場前でアリ先生と


イラン合気道のパイオニアであるアリ.アグサグロ先生は1966年生まれの41歳、1990年に訪日、川崎製鉄所で働いてまもなく、彼の世話を良くしてくれていた日本人クレーンオペレーターの部屋に稽古着がかけてあるのを見たのが合気道との出会い。イランでカンフーやテッコンドウをやっていたので大変興味を持ち友人と道場を訪ねたそうです。そこは現在の千草道場で道場長は吉田師範、合気道小林道場で稽古をされた方です。
 そのころ日本には仕事を求めてイラン人が大挙して押しかけており、中には違法なテレホンカードを販売したり薬物密売などの犯行に及ぶ者もおり、真面目に働くイラン人の信用にも影響を与えていました。千草道場では初めての外人、しかもイラン人、日本人の友人に保証人となってもらい入門しました。勤務時間に合わせて朝や夜、休日など毎日稽古に通ったそうです。合気道小林道場の小林師範を通して93年に初段、95年に弐段、98年に三段をそれぞれ合気会本部道場で試験を受け取得しています。98年9月に帰国し道場を開設、現在は四段位です。テヘラン市内には彼の道場のほか、彼から指導を受けた門下生が大小25ヶ所余りで指導をし、現在イランでは6千人余りの合気道家が稽古をしているそうです。


風格ある?道場門塀

道場全景

イスラム教徒の人なら誰でも一度は巡礼するというメッカ巡礼を終えたばかりのアリ先生、更なる目標は大学に戻ってもっと日本語の勉強をし学位を取得する事です。少しでも多くの日本語の合気道に関する本を翻訳するのが目的、いったん英語訳されたものを再翻訳する事によって内容が正しく伝わらない事を懸念しての事です。「イスラムの水を飲んだものがイスラム語に直接訳したい」彼から強い信念が伝わってきました。
 彼の道場には日本語を流暢に話す門下生が沢山稽古しており、幾人かは日本で合気道を稽古していた方も。その流暢で丁寧な日本語は大変に好感の持てる日本語で「ひょっとしたらオレよりも」と思うほど上手でした。「しかし本間先生、一生懸命勉強しても千葉や茨城、栃木では通じないですよ。そうーじゃながっペーですからね。もう一つ日本語を習った感じ」と秋田県出身の私には耳が痛い話に声を合わせて笑いました。日本語を話す方々は全員「日本は大好き、今でも帰りたい。しかし結婚もしてるしね、子供もいるし。それに両親も年だしーー」と顔いっぱいの笑みを浮かべて尽きない日本の思い出を語ってくれました。


ソルタニさん
 日本滞在13年、
合気道は日本が好きだからやっている

Mirzaミルザさん
日本在住7年、合気道は日本で始めた

こう云った親日家が日本文化の一つ「日本武道」を媒体として新たな親日家を生み出し、日本とイランの信頼構築そして国民感情にプラスとなっているとしたら、日本政府も多いにこう云った方々を支援すべきと思うのです。しかもその団体が属する日本の本部などではなく、現地の大使館や領事館が確認した上で「直接支援」する必要があると思います。本部などに支援しても現場まで届きません。
 アリ先生など一握りの親日家の方々が6千人もの指導者となっている事を良く考慮すべきでしょう。合気道は試合がないため他の国と競い合う事も無く、ましてや支援を受けた国の合気道団体が支援国日本と競うという事もありません。反面、試合が無いため所在国の援助は微少か皆無、スポンサーも付かない状態にあります。
 合気道に限らず、世界各国で活躍する現地親日指導者を支援する制度があっても良いと思うのです。団塊の世代から生じた指導経験の無い、定年後や早期退職者の輸出ではなく「即戦力」の方たちの支援です。


女性稽古中、男子立ち入り禁止のカーテンが


アリ先生の道場は食肉畜産組合の職員厚生施設にあります。普段は小道場で朝から晩までクラスを持っています。大きなクラスとなれば体育館サイズのレスリング場を使います。私が伺ったときは女性のクラスが開かれていました。もちろん男女一緒どころか男性は先生以外は入れません。このときは奥様のファテメ先生が指導中でした。私も「先生」という事で稽古指導をさせて頂きましたが女性の殆どはスカーフを取って稽古をしていました。グループ写真など彼女たちの希望で写したのですが、とても健康美ぞろいで礼儀も正しく、熱心に稽古をしていました。髪を隠さない写真は彼女たちの信仰心を傷付けかねないので公表出来ないのが残念です。


稽古には多くの人が集まる



木剣クラス


初日の稽古にはアリ先生道場門下生のほか、傘下の道場がグループでやってきて道場ごとの稽古など4時間のクラス、翌日は2時間、休日の金曜日は3時間、述べ300人余りの方たちと稽古が出来ました。
 門下生も多く経営基盤も安定しているのでは?と尋ねるとアリ先生は笑いながら「とんでもない、生徒の月謝は1600円余り、収入は殆んど広告に使います。残りが生活費です。多くの支部が有りますがそれぞれの指導者も生活が掛かっているし、経費も必要なわけですから私のところには周ってきません。私がそうしているのです。今は合気道を普及してイラン合気会の基盤を固める事が先決です。それに収入の不安定な門下生も多く、合気会本部の初段試験、登録料などを払う事の出来ない門下生もいるほどで私が月賦を組んで助けてやっている人も多くいます。警察官の給料が300ドルくらいなのですから本部の試験料を払ってしまったら生活ができませんよね。ですから私自身が経営を考えていたらやっていけませんよ。でも合気道が好きですからね」こう云ったアリ先生のきめ細かい気配りが現在の発展に結びついているのでしょう。

参加の皆さん、2グループに分けて稽古



稽古を通しての交流とはべつに積極的に外に出て少しでも多くイランの方々をを知ろうと努力しました。庶民の生活風景が見たいという私の希望に、弱電気関係の仕事をしているアミア君はスズキの新車で混雑するバザールや郊外の野外レストランに連れて行ってくれました。バザールはこれまで私が訪ねた国々となんら変わらない豊富な野菜や果物、加工品に溢れていました。食肉店や鮮魚店は清潔に管理され活気に満ちていました。
 整備されたハイウエーを40分ほど山中へ。渓流沿いの大きな樹木の茂る一帯に幾つもの野外レストランがありました。午後10時を過ぎていましたがどのレストランも木曜の週末(土曜日にあたります)を家族で楽しむ客で混雑していました。なんといってもカバーブが中心ですが食材の種類は多くイランの皆さんは豊かな食生活を楽しんでいるようでした。
 幾組もの家族がそれぞれ車座になって食事をする。もちろんアルコールはなくタバコを吸う人も殆ど見かけない家族の団欒。世話をするウエイターも機敏で礼儀正しく、指でパッチンとやって指招きしたり、サービスが遅いとか云って当り散らすお客もなく実にユッタリとしたピースフルな雰囲気に「私がイラン入国前に得た情報は何であったのか」と深く考えてしまいました。




市場には活気がみなぎる

翌日の稽古後は食べ放題のランチへ。マツダの日本車でドライブしてくれた青年は、車の性能を楽しむように飛ばし私は耐え切れなくなって「随分と飛ばすけど捕まらないの?チケット切られたらどうするの?」同乗していたアリ先生は笑っているばかり。「大丈夫だよ、俺が自分で切るから」そう云ってダッシュボードを開け取り出したのは違反チケット、そして中には赤色灯、やポリスの七つ道具が入っているではないですか。なんと彼は重要犯罪などの逮捕に年2−3回程度出動するテヘラン警察の特殊警察の隊員でした。逞しい体にはナイフで切られた痕がいくつも生々しく残り「生きているのが不思議」と不気味なスマイル。しかし車の窓拭きや、マッチ売りの女性に車の中から小銭を与える心優しい人でした。彼の立場上その凄い写真をお見せできないのが残念です。


アザディタワーの前にて

ホメイニ廟前にて

食事の後はペルシャ建国2500年を記念して1971年に建てられたアーザーディータワーを見物。そしてイスラム革命の指導者ホメイニー師の眠るエマーム.ホメイニー師霊廟へ。大きな霊廟で現在も工事がなされていました。霊廟前ではファミリーと思われる人々がカーペットの上でそれぞれの格好で食後を楽しんでいました。コンロを持ち込みカバーブやお茶を沸かして一日を過ごす。欧米の教会の前でこんな事をしたらおそらく排除されるでしょうが、その光景はなんとなく社の森や村の鎮守の前の広場で神々や祖先との出会いを求め宴を張る日本人とよく似ているように感じました。

ホメイニ廟の外で寛ぐ家族ずれ


ホメイニ廟内で


イスラム教徒で無い私が立ち入るのはーーと丁寧に断ったのですが「そんな事は無いよ、ここは皆を迎えてくれます」とアリ先生に誘われ手と口をすすぎ中に入ってさらに驚きました。写真撮影も自由だったのです。女性だけの祈る場所もありましたが男女自由な場所の方がはるかに広く、そこでも家族連れがお祈りの合間に横になって寛ぐ姿がありました。また人々が祈っている中を子供たちが自由に遊びまわり「しかられないの?」と聞くと「どうして?ここは家族の場ですよ」とそっけない返事。当然のようにアリ先生、あの傷だらけの警察官もまったく別人の様になって真剣にお祈りを始めました。急に私の元から遠くに行ってしまったような気持ちになり不安を感じた一瞬そのときでした、中に入ったときから距離を持って私を追いかけていた(私は武道家です)数人の強い視線が急に寄って来て「何処の国から?」と英語で質問して来ました「日本です」というとニッコリ笑ってウエルカムと言葉を残しその後は一切視線を感じなくなりました。周りを見ても日本人どころか中国、韓国らしき顔の人物はおらず、警備の人にしては目立つ存在だったのでしょう。日本と答えてスマイルが貰えた嬉しい日でした。


お祈りするアリ先生、中央

お祈りの間に寛ぐ人々

土曜日は飛行機で1時間ほどのカスピ海に近いラシュト市へ日帰り指導。現地道場の指導者バラン.ジャファライドアー先生とモグベランさんが迎えてくれました。モグベランさんは日本に10年間生活して壁屋として働き「一旗揚げて」帰った親日家での一人です。稽古前に遺跡の見学などさせてもらったのですが、見物する私が、反対に多くのイランの方々から珍しそうに見物されるのにはムズ痒くなってしまいました。ここでもモグベランさんが私が日本人である事を知らせると、どの方もニッコリ笑って愛想を返し握手を求める人すらいました。どう見ても田舎の方々ですし、どの程度日本を理解しているか解らないのですが、たった一片の日本に対するポジティブな情報が人心を動かし大きなものになって行くものと思いました。特に情報が規制されている国々においては些細な一言、些細なシーンが微笑みを怒りに変える危険性を秘めているわけで、日本といって微笑みを戴く陰にアリ先生のような親日家の力がある事に改めて感謝した次第です。


講習会場前にて。 向かって右アリ先生、左、バラン先生

バラン先生は以前は空手をやっていたのですが3年前からテヘランのアリ先生の道場に通っています。しかしそれが凄い。水曜日の夜行バスに乗って7時間、テへランのバス停からラッシュをさらに一時間、道場の外でクラスが始まるまで一時間ほど待って稽古、その日の夜行で帰ること3年。そういった苦労をされて道場を開いた方です。彼が稽古を始めた頃は冬、彼が凍える外で一時間も待っていた事をアリ先生が知ったのは春も近くなった頃だそうです。
 バラン先生の家で昼食をご馳走になりました。家に入るなり「女性はよその家に行っているから」とさっさとズボンを脱ぎボクサーパンツとランニング姿に。いつの間にか集まった仲間たちも気軽な姿になり私もイランで初めてのジョギングパンツ姿に。室内にはクーラー、大型の薄型TV、20畳ほどの設備の整ったキッチン、大きなダイニングそしてリビングルーム。そこに焼きたてのカバーブやサラダ、ヨーグルトなどが出前され男だけでも不自由なし。食事が終わった頃にはリビングにシーツと枕が用意され昼寝、私が目を覚ました時にはアリ先生など全員が横になっているという、なんとも自然で、寛げる時間を満喫する事が出来ました。女性陣に遠慮してもらった心憎いばかりのホスピタリティー?に感心してしまいました。


ボリュームある昼食

300枚の色紙に向かう

さて道場は県営の体育館、見学席は家族などで満席。町の顔役も並んで会場は熱気がみなぎっていました。参加者は80人余り、中には柔道や空手の方々も混じっていました。皆さんとても純真で人柄が良く汗だくになって熱心に3時間の稽古をしてくれました。


純真な子供たちと

ラシュトの皆さんと


皆さーーん、良く撮れましたよ。


講習会後、「写真撮り好き」のイランの方々に答えて30分間の写真ポーズをとり、別れを惜しみつつ夜の飛行機でテヘランに戻りました。バラン先生、モグベランさん、そして多くのラシュト合気道家の皆様、心温まる歓迎とお持て成しに心から感謝申し上げます。


翌日の日曜日は予期しなかった日程が入りました。ホテルのロビーで朝8時に会いましょうと云うことで稽古着に着替えてロビーに。そこにはイラン陸軍特殊部隊の軍人3人が直立不動で待っていたのです。アリ先生が「今日は旧アメリカ大使館内にある武道場で指導していただく事になりました」と私に告げました。
陸軍特殊部隊といえばイランでは泣く子も黙る部隊。ホテルのマネージャーが「なにか私どもで問題でもあったでしょうか」と尋ねたほどなのですから。旧アメリカ大使館はホテルのすぐ近くでしたがホテルの前には軍の迎えの車が待っていました。


迎えの特殊部隊員と旧館内にて


 旧アメリカ大使館は1979年の革命時に人質事件に発展、現在の米国イラン関係に発展した中心現場です。現在外部の塀には反米スローガンが書かれ、厳重な警備が道行く人すらカメラで追っています。現在の中の様子や状況の説明はひかえ、写真も許可を受けたものしか公開できませんが、道場では柔道と合気道が稽古されており、この日は70人余りが稽古を受けてくれました。通常、参加者の希望に合わせて稽古を進める私は「十字投げ」「腰投げ」「入り身投げ」の三つの希望をまとめ、各種十字投げからの腰投げ、入り身投げを指導しました。


旧大使館内道場での稽古風景


稽古終了後、軍の車に乗り込んで発車しようとするとき、多くの門下生が外に出て別れを惜しんでくれました。車はVIP専用道路をしかも一方通行を反対方向に信号無視で走りあっと言う間にホテルに。見上げるような軍人が敬礼をしてホテルに入る私を見送ってくれました。ホテルの接客態度が一段と良くなったのは言うまでもありません。


アリ先生ご自宅で中央アリ先生、右、スタッフのラシャードさん


イラン最後の夜、アリ先生のご自宅で夕食をご馳走になりながらの合気道談義。映画によって脚色され足元が浮いてしまった開祖の伝説や合気道、これらを基にした質問には答えようが無く困ってしまいました。



これでイランの話は終わりです。いや、終わりにします。これでは良い事ばかりではないか!そう思う人も多い事でしょう。しかし町はきれいで、風に飛ばされてハンバーガーの包みやカップその他諸々のごみが舞っている事もありませんでした。物乞いはアメリカに比べたらゼロに等しく、アルコールやドラッグで騒ぐ者も無く、ボリュームいっぱいに音楽をかけて走り回る車も、身体中に刺青、ピアスを付け、お尻の割れ目までパンツを落として歩く若者など公共の場にはいませんでした。もちろん何処の国にもある様に多くの問題も存在するでしょうが、今回の私の訪問では遭遇しませんでした。一般市民の自宅での生活はプライベートな事であり私には関わりありません。確かに市民生活の陰には風紀警察(宗教警察とも)の厳しい目があります。しかし日本でも社会秩序、風紀を守る「おまわりさん」と「交番」があり、世界でも安全な都市の一つとされています。中東などにはもっと厳しい取締の国もあり、イランだけを特別視するのはどんなものかと思うのです。通常の常識とモラルを持ち、宗教や習慣に対して敬意を持ってイランを訪れるなら、なんら心配の無い素晴らしい国と私は思いました。必要以上にイランに対して「肩苦しさ」を感じるのは、実は我々自身の肩幅が余りにも広すぎるためではないかと思うのです。メディアを騒がす核開発や,武器輸出の問題など知らないわけではありません。しかしそれを軸にしてすべてをネガティブに咀嚼する事はしたくありません。解決の糸口を見失ってしまうからです。


もう一度よく眺めてください

 
イランで見つけた急須。良く眺めて、笑ってください。どうして使う?中をのぞいてみたら解ります。結局はハンドル正面の一本だけが注ぎ口です。
 外からばかり眺め余計な飾り物に心を取られて混乱する事無く、心の蓋を開いて中を覗いて見ましょう。米国、イランの関係、私は冷静に見つめて行きたいと思います。

     平成19年7月30日記
日本館総本部
館長 本間 学 記



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