館長コラム◆◆  

武士の使命は家に帰ること
  米軍、フィリピン軍合同医療支援作戦に同行して
 


治療に集まる住民たち


 数年前、アメリカでも話題となった2本の映画の話から始めましょう。映画評論家でもないので出来栄えの話をするつもりはありません。
 一本は「ラスト侍」もう一本は「たそがれ清兵衛」です。ラスト侍は日本人の俳優が演じていますが米国製サムライ映画、最後の場面はまさにアメリカ先住民族と政府軍の戦いそのもの、馬上勇ましく襲い掛かるサムライたちがアームストロング機関銃で容赦なく撃ち落とされる場面に「感動し」それが「サムライスピリット」と誤解した米国人も多い様です。その場面から連合軍を震撼させた日本の特攻攻撃を思い出したという私のアメリカ人門下生もいました。
 もう一本の映画「たそがれ清兵衛」実直な下級武士が上司からの命令によって人を切るために出て行くストーリーは「ラスト侍」の様に派手ではないが侍の生き方を良く知ることの出来る作品と思います。特にこの作品で私が好きなのは仕事を終えて家に帰る侍の姿です。傷だらけになって家に帰り娘を抱き上げる場面は涙を誘います。

 合気道指導において格闘技武道と合気道の違いを質問されるときがあります。そのときに例とするのが先の二本の映画です。そして「武士の仕事は『行ってきます』と別れを云って家を出て『ただいま』と行って帰る事にある」といいます。
 しかし、負けた者は家には帰れないだろう、そう聞き返す人のためには「勝った人ばかりではなく負けた人も帰れるのが侍の戦」と答えます。
 歴史上の物事を映画化する場合、派手な切り合いや合戦場面がクライマックスとして必ず存在します。しかし実際においてはそれはあくまでもクライマックスでありその最悪の状況にならないようにあらゆる努力がなされ、場合によってはクライマックスに至らない事もあるわけです。しかし映画の中ではこのクライマックスなしでは興行が盛り上がらないため必要以上に脚色して我々に届けられます。最近では映画ばかりでなく、報道やドキュメンタリーもこのクライマックスのみを取り上げる傾向にあるようです。
 

 日本の鎌倉時代(1185−1333)頃から江戸時代(1603−1867)の終わりまでの680年余り、武士道精神なる哲学は、日本国内の政情や世相、思想、宗教などと重なるように変化してきました。仏教思想、とくに禅宗が武士の心得として定着したころ、武士たちは大きな矛盾を克服しなければなりませんでした。


 禅は不殺傷の教え、武士は事起きれば相手を殺すのが仕事。そうでなければ自らが死す事になります。信仰する宗教に反する自己の使命、武士たちはその葛藤の中で生きたといえます。
 相対する戦人はみな愛する国を持ち、家族を持っています。命の危険も顧みず祖国を、家族を守ろうとする双方の戦人に何の隔たりがあるでしょうか。
 慈しみの心は相対する双方の戦人に常に存在するがゆえに仲間が、家族が殺されれば涙を流し、剣を持って立ち上がる。当然の事でしょう。その当然の事の中に熟成されていったのが「武士道、侍スピリット」と私は考えています。

 世界各地の紛争前線で任務する現代の侍たちも多くの葛藤の中で黙々と任務の遂行をしている事でしょう。激しい戦場での戦いから心を悩む多くの兵士がいても誰しも否定できない最も人間的なリアクションといえます。しかしその空しく辛い葛藤なくして平和は遣ってこない、その空しく辛い葛藤が平和を作り上げて行く事を私はこれから報告する体験で感じました。この報告は決して戦争の傷跡を隠そうとするものではありません。しかしその傷跡を癒そうと努力する多くの兵士たちも存在する事を日本人武道家としての観点から紹介したいのです。


フィリピン陸軍兵と館長


 私は今回、米軍とフィリピン陸軍部隊の混成部隊による医療支援作戦に同行する事が出来ました。今回の同行によって、ともすると戦場のピークシーンばかりネガテブに紹介される中で、命を懸けた前線兵士たちの献身を無駄にしない、いわば「平和の戦場」というべき作戦を体験することが出来たのです。この作戦の成功、不成功こそが前線兵士の葛藤を解きほごす大切な鍵であることを深く感じました。


診療地に入る米軍特殊作戦部隊の軍医など


 私が同行したのは、フィリピン、ミンドナオ島南西部のジャングルの2ヶ所とし村名は控える事にします。長い歴史の混濁が存在するところで、宗教上の争いからの分離独立運動が激しく、モロ イスラム解放戦線、新人民軍などの反政府グループが拠点を置き、テロ組織アブサヤやジェマイスラミアなどとの連携もある地域です。米軍とフィリピン陸軍との合同作戦でほとんどは沈静化し停戦状態とはいえ一触即発の状態である事はこの作戦に100人以上のフィリピン陸軍が出動した事で理解できます。


フィリピン軍の緊張は続く


 ベースキャンプとなった町から3時間余り、その村に到着したのは午前9時、4輪駆動すら腹を擦るほどの悪路を巡ってたどり着きました。私が同行した作戦二日目のことです。フィリピン陸軍兵が重装備で警備するなか、村の広場には住民たちがすでに集まり始めており、千人近い住民が診療の手続きに列を作るのには時間が掛かりませんでした。その列に一人の老人が妻と娘に支えられて並んでいました。しかしその長い列に並び手続きを待つにはその老人はすでに限界の状態にあったのはそのときの私たちには気がつきませんでした。老人は支えられて、列からはずれ近くの小さなモスクのベンチに横になっていました。そんな一人の老人の事などに関わりなく千人の波は動き続けました。村の校舎を使った割礼、内科、外科、眼科、歯科などの診療室に人々のうねりが移動した頃、その老人に気がついた軍医が優先的に診療を行い、心臓に異変があることを見極め、町への搬送を検討したのですが老人が同意しないため点滴などの基礎治療をして様子を見ていました。


町への移送を促す軍医

心臓に異常があり緊急治療

 昼食も過ぎたころでした。老人がにわかに心臓発作を起こしたのです。すぐに10人を超える米軍、フィリピン軍の軍医が医療設備のまったくないモスクのベンチで救命治療にあたりました。その真剣さは周りに集まった群衆さえも威圧する真剣なものでした。その緊張は30分ほど続きやがて軍医長と思われる米軍将校が身を起こし少し下がってしばらくの沈黙のあと静かに十字を切り老人の死を告げました。周囲の軍医たちの顔にも救えなかった命に祈る重い表情が見られました。私の心配したのはその直後でした。ついこの前まで対立していた、いやこの時ですら半信半疑の状態で集まった住民たちの心に不信感が増幅するのではないかと。しかし妻は通訳を通してこう告げました「イスラムのモスクでこれだけの治療を受け、多くの家族親戚に見守られながら逝ったのは神の恵みである」と。群集たちには一切の動揺もなく遺体は車に乗せられ自宅へと引き上げていったのです。


限られた医療器具

全力での延命処置

 千人の群集が何もなかったように診察治療を受け作戦を終了したのは四時過ぎでした。それにしても自らの身の危険も予想されるなかで、わが身も忘れて延命処置に当たった米軍の軍医たちに私は胸が熱くなりました。この事実を目の前で見る前までは「所詮この作戦は現地住民の懐柔作戦だろう」と安易に考えていた私でしたが、それが結果的には住民たちの懐柔となろうけれども、主目的ではなく作戦の本来の目的は「可能な者たちが不可能な者たちに手を差し伸べる」きわめて純粋な作戦であり、作戦が成功する事によって過去の物理的、精神的犠牲を「再生する」重大な任務を持っているのではないかと考えました。軍医たちの優しいまなざし、いたわり、休息も惜しんでの診察治療、フィリピン軍医たちへの指導、住民たちとの交流、この作戦は平和構築つまり「再生」のための作戦であったのです。


歯の治療

目の治療

 私は日本での経験を思い出しました。10年ほど前、米国人14人と日本の小さな漁村に滞在したときがあります。そこでハプニングが起きました。私が直接「日本館、本間15人」と予約を入れたので受け取った民宿のお婆さんは日本人の旅行者と思っていたのです。それが日本人は私一人、それでなくとも外国人などやって来ない小さな漁村、なんと自分の民宿にアメリカ人が泊まる事になってしまったのです。「お婆さん心配しないで、迷惑はかけないから、日本人と同じにして下さい」と説得してやがて夕食の時間になりました。私は部屋に入って驚いてしまいました。  民宿の料理とは思えない豪華な料理がテーブルいっぱいに並んでいるのです。お婆さんが手招きで私を呼んで「これで良いかね、田舎なもので何もないけど魚介類は新鮮です」と言うのです。 台所の奥のほうには子供や孫までが集まっていました。食事も始まってしばらくした頃、グループの一人ウィリアム医師が給仕するお婆さんの手の節くれにそっと手を当てて「若い頃から苦労してたんですネ」通訳を通して優しく語りかけました。お婆さんは恥ずかしそうにその手を隠し「若い頃から、牡蠣むきなど随分働いたものでね」と話が始まりました。「私は中国に旅行に行ってきたんです。日本がなぜ中国と戦争したのか知りたくてね。あんな大きな国に欲を出したから負けてしまったのよね」「終戦になってアメリカの兵隊が来たら若い女はみんな手を付けられると地域の男たちから言われていました。そのときは岬の崖の上に隠れる事にしていました。もし危なかったら飛び降りるためです。兵隊たちのジープがやって来たという事で私たちは必死で逃げました。二日ほど隠れていたのですがお腹がすいてきて山を下り家にいるとまた米軍がやって来ました。慌てて小屋の中に隠れていると妹たちのハシャギ回る声が聞こえるのです。しずかに扉を開けると何かを米兵からもらったりジープに乗ったりしているではないですか、私には何が起きたのか理解できませんでした。米国兵、イギリス兵は鬼だ、畜生だと教えられていたのですから。それでも私はその楽しそうな雰囲気に負けてしまいもういいやと思って外に出て行きました。兵士たちはとても紳士的に私に接してくれたのです。そのとき私はなんでこんな戦争をしたのか情けなくなって、いつかはこの思いをアメリカさんに言うと思っていたらアンタさんたちからやって来てくれた、もうこれで私は死んでもいいわ」と通訳の留めるのも聞かず一気に話し涙を流したのです。もちろんグループ一行も熱いものを感じました。そして戦後50年以上してこの老女の戦争は終わったのです。

子供たちとの交流は今も変わらない
医療作戦中の米軍特殊隊員とフィリピン陸軍兵

 私は1950年に日本で生まれました。二次大戦の日本敗戦後5年後です。軍人将校であった父や、母、長姉から戦後復興における連合軍、特に米軍からの救援物資などの話しを幾度も聞かされました。脱脂粉乳、メレケン粉、私はそのお世話になって育ちました。大量の医薬品、教育用品、戦後まもなく生まれた日本人で米国や他の国々からの救援物資のお世話にならなかった人はおらないことでしょう。しかしその恩恵を受けるまでは310万人もの民間人、軍人の尊い命を犠牲にしています。我々日本人は抵抗することなく敗戦の侍として、その恩恵を素直に受け、国民一体となって復興に奮起し現在の日本があります。確かに尊い命を失ったけれど、その犠牲を「生かす」ことが出来たのです。
 我々は戦争や地域紛争といった最も愚かで悲惨な体験の後に多くのことを学びます。しかし必ずしも平和の構築にとって有意義な事ばかりではなく事実を歪曲して伝えられる事柄もあります。
 第二次大戦において日本が敗戦を感じだしたころ、日本軍は少年までを含めた若き青年たちを「特別攻撃隊」として戦場におくり自爆攻撃をさせました。現在、政情不安定な国々で発生している自爆テロはこの「特攻攻撃」が歪曲美談化され引き金になっているとまで言われています。追い詰められた日本軍が歪曲した侍スピリット「武士道精神」をもって若者たちを洗脳し、ピークパフォーマンスとなったのが自爆攻撃です。純粋な心で命を散らした隊員たちには誠に申し訳ないのですが自爆攻撃を持って美談とする事は決して許される事ではなくましてや「武士道精神」でもありません。
 「侍の使命は生きる事、生き延びること、生きて家族を養い、国を築き上げる事」たとえそれが命を失う悲惨な結果に終わる事になっても残された者たちが復興の道に邁進しそれを完成させ「再生」させる事によってその犠牲に報いることが出来るのであって、復興、再生の存在しない特攻攻撃や玉砕思想は「命の損失」に過ぎません。日本武士道精神の重きを成すのは「潔さ、いさぎよさ」です。その思想を悪用したのが自爆思想です。潔さとは自己の足元を見極め大極を判断して生き延びる思想です。ネガテブな思想ではなく、現在の日本をなした素晴らしい日本武士道哲学を学んでほしいのです。


内戦の弾跡が残る旧役場

 前後して作戦同行初日の話に戻ります。フィリピン陸軍の軍用トラックに乗った30人余りの兵士、そして軽装甲車に先導されて私たちは村に入りました。要所にはフィリピン軍兵士が警戒配置されていたとはいえ、軍医や要員を乗せた車は住民たちを刺激することを避けるため一般車を使っていました。もちろん車内には各自が緊急時には対応できるフル装備は積んでいるものの作戦中の彼らが身に付けているものは軍服の下のピストルのみ、防弾チョッキやヘルメットは身に付けておらず、ライフルや軽機関銃、迫撃砲の遠方からの攻撃にはまったく無防備の丸腰。ましてや千人も超す群集の中で不審な人物を見分けるのは不可能なことであり、そういった緊張感の中での作戦は弾丸飛び交う前線兵士たちとなんら変わらぬ使命感がなくては勤まらない作戦です。


治療に集まった住民たち

割礼に並ぶ子供たち

 炎天下、さえぎるものも少ないなかで列をびっしりと詰めて並ぶ群集たち。一人一人を親身になって診察治療する軍医たち。割礼のタイミングを逃した男の子たちがなぜか皆笑顔で列を作り「イスラムの男」になった喜びの表情みせて外に出てきます。2日間で750人の男の子が治療を受けました。村人たちの表情は明るく子供たちは無心に遊んでいました。この遊びのほとんどは旧日本軍が残した遊びで、私にも思い出あるものでした。
 米軍特殊作戦兵たちは緊張の作戦の合間にも積極的に子供たちの輪の中に入って和やかなひと時を過ごしているのが印象に残りました。
 この村での昼食はきわめて質素であり、また狭い場所で立ったままの食事、宿舎に戻ってからもコンビーフにライスや揚げ魚程度、地元の方々と同じレベルの食事は鍛えられた陸軍、海兵隊諸君にはいささか厳しい内容であっても「地元の方たちと同じものを」として耐える姿に感服しました。


手品をするキャップテン、ルニー



立って昼食を取るキャップテン、ルニー

質素な昼食

 一度破壊された相互関係を修復する事は大変な努力が必要です。破壊よりはるかに難しい事は明確な事です。ましてや自らの身を任せ医療行為を受けるまでに信頼関係を育てるには大変な努力が必要な事でしょう。しかしたとえ時間がかかっても最も平和的な兵法といえるでしょう。そして開戦前に約束した「平和の再構築という大義名分」を実践しなければ前線で命を落とした兵士たちが報われることもなく、善悪の葛藤に苦しむ兵士たちの救いともなりません。「平和の再生、復興」の実践こそが失われた命に対する最大級の敬意であり、それがなされて死は生となって祖国に舞い戻ると私は考えます。私が書き出しで述べた「侍とは生きて帰る事」とは生命生死を問うものではなくこう云った武士道哲学を基に述べているのです。


親身になって診療に当たる軍医たち

 恐らくこう云った作戦は一基の高性能ミサイルよりはるかに安上がりな事でしょう。そして最も犠牲者が少なく人々にも喜ばれます。貧しい国々での再生復興は医療に限らず、青年教育、特にスポーツ、武道、農業畜産指導、物産起業などのリーダーの支援育成が重要で、それに携わる専門分野の兵士を育て作戦に投入する必要性を感じました。

獣医も参加した

作戦を終え地元有志の宿舎到着、長い緊張の中でこの日の作戦を無事に終えた安堵感からか振舞われた夕食もそこそこに簡易ベットを組み立てシャワーのチャンスもなく眠りにつく兵士たち。まだ長い作戦が続きます。米国や世界のメディアで報道される事もないこう云った兵士の地道な努力によって平和が蘇ってくると私は信じます。そしてそれを遂行する義務が勝者にあります。


 私にはイスラムの国々にも多くの知人友人がおり合気道指導やAHAN活動で頻繁に訪問しています。これまで私は一度もこの国々の方たちから不快な事、ましてや危険を感じた事はありません。このコラムを書くにあたり「米軍美化」と取られる不安がありましたが、私は好戦主義者でもなく宗教家でもなく、一武道家としてこの作戦を評価して見たものです。
 一日も早く紛争地域に平和が訪れる事を願う心は強いつもりです。

     平成19年4月6日記
日本館総本部
館長 本間 学 記



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