館長コラム◆◆  

■小さな道場の大きな価値

彼、ラメロス先生は27歳、5つの頃から武道を始めたといいます。小柄ながらもしっかりとした体つき、飛行場で初めて会ったときに縞のシャツを着ていたので「ポパイ」と滑ってしまいました。その道場はプエルトリコの首都から2時間半ばかりの地方の町にありました。「ここが私の修行の場」と胸をはって扉の鍵を開けてくれました。そこは柔術や古流空手、剣道、柔道なども同居する彼らにとって神聖な場である事は私には直ぐに伝わってきました。15坪余りの広さ、壁面には天井から睨むドラゴン、それを牙をむいて迎える大トラ。正面の壁にはプエルトリコ旗とアメリカ国旗、少し前までは日本の海軍旗もあったそうです。日本人が書いたとは思えないOO古伝空手やOO柔術などの掛け軸や指導者の写真。壁には色々な武器が掛けられ、振り返るとその壁には数多くのインドの宗教指導者の写真、「私も居ます」とばかり大きなキリストの壁掛けも。臭いのきつい線香、そんな中に合気道に関する免状や加盟証などが無造作に掛けられ勿論ひときわ大きい合気道開祖の写真もありました。もういつブルース・リーが身体中傷だらけにして出て来てもおかしくない設定なのです。

こんな事を書くと私を呼んでくれたラメロス先生や門下の皆様に失礼ではないのか、と思われる人もいるでしょう。しかし私は心からこのムードに浸れた事を喜び感謝し、そしてなによりも懐かしいひと時を過ごしたのです。私は事前にこの道場が10人程度で稽古しているグループでラメロス先生は養神館合気道や合気道アソシエーション-オブ-アメリカ(故豊田文男師範創設団体)に加盟し、他の武道の免状も持っている事は知っていました。

私にとってこういった道場への訪問は、米国に於ける合気道史を考えるには最もふさわしい場であり、自己のアメリカに於ける原点と今後の自分のあるべき方向を確認できる貴重な体験の場となるからです。

1976年、私は米国東部フィラデルフィアに丸山修二先生(現在は修道に改名、光気会合気道創設者)を訪ねていました。その頃は米国合気会の山田師範や金井師範らと別れ故豊田先生と気合気道(気の研究会、心身統一合気道)の精鋭部隊としてその組織作りに全精力を傾けている時でした。やがてその関係も崩れる事に成るのですが、とにかくその頃は良きにせよ悪きにせよ全ての日本人指導者が全力をかけてその組織維持、拡大、互いの食い込みと、鎬を削る「合気道戦国時代」の頃でした。特にシカゴでは合気会の故藤平明師範、さらには合気会を離脱し「合気道スクールオブ植芝」というあたかも合気会の公式団体のような団体名で押しかけた早乙女貢師範までが入り乱れ、つい数年前までは合気会で供に稽古をした方々が熾烈な戦いをしたのです。この早乙女師範の殴り込みの様な行為が米国における日本人合気道指導者のモラルを変えたと私は思っています。日本語に訳せば「植芝合気道学校」ですから「武士のモラル」などと言っては生きていけないと思っても仕方ありません。戦ったのはそれだけではありません。ブルー・スリーブームは収っていたとはいえ武道ブームは全盛であり世界中のありとあらゆる武道の道場が街の角々にあった頃です。何しろ韓国ハップキ道の道場に「合気道」の掛け軸と植芝開祖の写真がかけられていた頃です。素性の解からない格闘技がそれぞれの生存をかけ激しくも揉み合い、多少のヤバさも含んだ戦国時代でした。

こんな中で、合気道パイオニア達の争いに最も混乱したのは門下生達でした。夜が明けたら自分の先生が別の看板を掲げたり、ついこの前まで力を合わせて米国合気道普及のために頑張っていた師範たちが翌日から罵りあうという哀れな姿をさらけ出してしまったのですから。そんな師の姿を見て静かに道場を離れてしまった優秀な門人も多かったのです。そういった繰り返しは結果的には師範として門下生に対する「師範の示し」、つまり影響力が薄れ、少しの不満をもったり少々の注意をすると平然とその師範から別れ他の団体の師範のもとに駆け込む現象が現れました。現在の道場の指導者のなかには過去においては他の団体で稽古していた人は意外と多いのです。そういった人物が競争相手の団体から移籍してくるとその人物が以前に持っていた段位をさらに昇段させ傘下道場長などの役職を与え指導者となった者も数え切れません。指導者の腹の内をわかった者はさらに賢く、他の指導者にも微笑みかけさらに移籍する者までいたのです。あげくのはては、其れまでの自己の段位を分けて、A流合気道2段、B流合気道3段、C流合気道4段と平然と其れを並べてタイトルとしている者もいます。これなどは合気道戦国戦時の混乱が生んだ産物のひとつといえます。

でも悪い事ばかりでは有りませんでした。それはこういったパイオニア師範たちが、自らの生き残りをかけて米国中の隅から隅までを飛び回り組織作りに励んだため逆に合気道の普及が急激にすすみました。ただし組織作りをあせったため質の方については「乱立させた」という表現があてはまるケースも無いではありません。

そんな事があってだいぶ経ちました。今やその頃派手にやった戦士達の幾人かは世を去り、それぞれの団体は一応の安定をなし、何も無かった様に合気会に戻った人も居ます。組織とは全く不思議なものです。ともあれ今はあたかも休火山のような状態にあります。時々思い出した様に「離れた、戻った」などとクラシックな事があるようですが。そんな時間の流れの後、なんといっても大きく変わった事はピラミッド組織の完成でしょう。組織ルールが完成し、年に数回の中央での講習会の参加を昇段条件として義務付け、そのほか指導員、福指導員、さらには女子指導者講習会など多額の講習費でそのステータスと交換されるようになりました。高段指導者の地方訪問は本来の合気道普及者としての「稽古指導」から「試験」といわれる営利活動に重きがおかれる様になりました。当然地方の小さな道場などには金銭的魅力も乏しく訪問することもなくなり、組織ルールの遂行のみが求められ孤立してしまう道場も多くなってしまいました。小さな道場は上部の興味をひきつける為の経済負担のみが大きくなり結局は自己の活動に費やす部分が不足してしまうのです。税の取立てや兵の差出しなどで地方民を押さえ、その自立と抵抗を抑えた王侯貴族、日本の参勤交代制度などを思い浮かべてしまいます。

「ほんとにコレでいいのでしょうか?」と私は考えるのです。此れまで組織を築き上げ現在も其れを支えているのは何と言っても門下生です。小さな町の末端道場の存在をおろそかにしては成らないと思うのです。いくら傘下の道場が300あると豪語しても決してその上部団体の指導者が資金を出して道場を開設したわけでもなく、電気代、広告代を援助してくれたわけでもないのです。殆どすべてはその傘下道場の指導者が身銭を切って立ち上げ「OO加盟道場」のライセンスと引き換えに奉げているにすぎません。いま合気道高段指導者に求められているのはこの人たちを支えた前線末端道場の合気道家への深い配慮の心です。特に中央アメリカ、南アメリカ諸国に合気植民地のように組織を拡大し、高段指導者たちが年に一度程度豪華な接待付きで押しかけ講習費や試験料のみならず一切の費用を持ち帰る姿に内心落胆している現地合気道家は多いのです。この変貌してしまった指導者の現在の姿には「開祖の特使、合気道師範」としてのかってのプライドは何処にも見る事はできないのです。そればかりか自己団体の関連商品の押し売りや所有義務付けなど門下生の弱みに付け込む「商人」としての姿が目立ち「武人」としての姿は薄れてしまいました。特にここ数年は講習費、稽古用品の高額化によって益々弱者に配慮のない合気道となってしまいました。

私が数ヶ月前にこの館長コラム欄に書いた「合気道の国際化は地域格差の考慮から」はスペイン語ポルトガル語に訳され多くの人々から支持をうけましが、今回のコラムはそれに続くものです。ぜひ読んでみて下さい。

今年の春、道場を訪れたひとりの青年がいました。オフィスのスタッフに「本間先生は私の道場に来てくれるでしょうか?プエルトリコですけど」と尋ねているのが私にも聞こえてきました。私は彼を前にして「行くよ」と一言答え連絡先を教えました。初対面で名前もわからない人物に即座に返答したのですから驚いたのは彼のほうだったでしょう。しかし多くの初心者に接している私から見れば素性など関係なく石火の如く感じるものがあるのです。「旅費も指導料もいらないから安くて安全なホテルだけ捜しておいて」といって別れました。彼が今回の訪問をアレンジしたプエルトリコ大学で法学を学ぶジェビアー君でした。そして彼らの道場については先にのべたとおりです。

話は横道にそれるようですが、ブラジルやメキシコのいたるところで素朴な宗教アイコンを祭っているのを見かけます。イエスやマリアの像を制作当時は精一杯の価値あるもので飾りつけてあります。すばらしいモザイクが実は割れた焼き物やガラス瓶であったり、色々なボタンであったりします。これはアメリカ南部のアフリカ系アメリカ人の文化にもみられます。またアメリカ先住民族の方の衣装にもその時期もっとも価値ある物が身につけられます。鷹の羽や爪などですが、白人たちと物々交換で手に入れた数百個の噛みタバコの缶の薄いカバーの部分で作った飾りのドレスをつけて光り輝きながら踊る女性は病魔除けの意味を持ちます。最近では肩の部分に幾枚ものCDデスクを飾り付けて踊っていた若い方がおり「なぜ?」と尋ねましたら「このミュージシャンは俺の神様」と答えました。いずれにせよこれらの習慣は神や未知の物に対する敬意と恐れ、憧れや願いとして純朴、純粋な精一杯の人間味が現れた姿ではないかと私は思っています。

私はラメロス先生の道場に立ち、所狭しと壁に飾られた物を眺めて感じたのは他でもないこの事でした。彼にとって道場は武道に対する精一杯の純粋な思いをパフォーミングする聖域であり、自己が関与した全ての指導者に対する忠誠と感謝の場であるわけです。富士の裾野に住む人は富士山の写真など無くとも毎朝夕の身近のものですが、見えないところに住む人はせめて写真を飾って富士を見るようなものでしょう。ラメロス先生に限らず地方の小さな道場で開祖植芝を人生のアイコーンとして修業を積む純粋な若者達を見逃しては成らないと思いました。
彼が奥の方から埃を払いながら写真を持ってきました。それは3年前この道場最後の訪問となった故豊田文男先生との写真でした。数年間こられていたといいます。私は写真をみせる彼の澄んだ目が輝いているのを逃しはしませんでした。

現在の米国、いや世界の合気道はこういった末端前線道場の戦士達によって支えられている事を私は再確認する事ができました。そして私ども指導者の義務もあえてここに書くことを必要としないほど明確であることもさらに確認しました。
同時に世界各地には、献身的にこの道に携わっている日本人指導者もたくさんおられます。ごく一部の指導者がそういった健全な指導者のイメージを損ねる事は許されません。また会話力の不足から現地人指導者の品行や強引な道場経営を把握できず見逃してしまっているケースもあります。今後の合気道界の健全な発展を考えるなら指導者自身が金銭感覚の明確、健全化を図ることです。指導者は門下生あっての命です。改善の無い場合は恐れる事なく門下生が連絡を取り合い立ち上がるべきでしょう。

小さな道場であっても、大きな価値(連携の力)があります。

                         2003年9月5日記
日本館 館長 本間 学

このコラムは英文コラムをもとに幾つかの内容を加えて日本語に訳したものです。このコラムに出てくる高段者とは合気会本部より直接、短期巡回派遣される指導師範とは関係ありません。この訪問はAHAN(合気道人権人道行動プロジェクト)の資金援助によって行われました。

道場の前に座り遠き日を想う本間館長


ドラゴンとトラ
もっともポピュラーな武道アイコーン。

故豊田師範もこの地を巡回指導をしていた。2000年の頃。

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