館長コラム◆◆  


時をくれた青年
 


朝のひと時アーマンド君と本間館長


その青年は6時に起床して道場の掃除を1時間。朝の水掛で濡れたテーブルを拭いて私と朝食の時間をすごし研修訪問のため忙しく出かけいく毎日が2週間、帰館後は稽古着に着替え、内弟子稽古、一般稽古も積極的にこなしました。

 
 以前こんな事がありました。ここで紹介する青年と同じ国から日本館の奨学金制度で内弟子にやってきた青年は一週間ほどで「目が見えない」と言い出し、心配した日本館のスタッフが病院に連れて行きました。「どこも悪くありません」医者にそう云われても「見えない」と言うのです。そこでさらに専門医に診せても「ナンでもなし」それでも本人は「見えない」と云うのです。私は丁度海外指導に行っておりその報告を電話で受けておりました。
 帰館後すぐに様子を見たのですが何の以上も感じられないのです。稽古もするし、道場作務もしていました。症状を聞くと「見えない」と繰り返すばかり。目が見えない人にしては感覚が敏感すぎ残念ながら「仮病」と判断する事になりました。そこでよく状況を調べた結果、彼は渡米数週間前に結婚しており、かといって「奨学生として米国日本館」の魅力も断ち切れず内弟子には来たものの、こういう結果になってしまったわけです。私は内心「これは新手」とおかしな関心をして帰国させました。残されたのは彼の眼の検査などの医療費2500ドル余りの負担でした。
 私が「これは新手」と感心したと云うのは、日本館内弟子で本人が希望した滞在日数を最後まで勤める人は五人に一人ほど。これは日本館の内弟子生活がら逃げ出したいほどキツイというわけでもなく、内弟子個人の「心境の変化」でしかありません。なぜなら過去30年間、同じ条件で同じ事を日本館はやっており、多くの素晴らしい内弟子修了者が育っていきました。そのなかで成就出来なかった人というのはやはり「心境や価値観」に何かの変化が起こり、夜逃げ朝逃げは可愛さがありますが、時には両親家族を病気にしたり、緊急用事の電話をしてもらったり、ガールフレンドとの関係が戻ったとか妊娠したとか(勿論作り事ですが)、悪たれ息子が両親を道場に呼び、稽古着姿で生活する「凛々しい姿」を見せて「更正」をアピールして道場を出たり、(現に、両親が会いに来た数週間後に道場を出た内弟子は多くいる)、自分の至らなさを「日本館の不備」と両親に泣きつき親が乗り込んできたり、ユニークな例では「私は夕方5時に必ず夕食を食べなければならない、そしてそのあとは運動はしない」と宣言して出て行った人もいます。日本館の稽古は夕方5時からなのです。
 内弟子からの脱出はさまざまな手法がありますが、この頃はどんな内弟子でも一週間もその動きを見たらその内弟子のタイプが前もってわかるようになりました。それにしても「見えない」という手は初めてでした。怪我なら症状が私たちにもわかりますが、数人の専門医が診て「なんでもない」といっても本人が「見えない」と云うのですから、私たちも仕方なく帰国させるしか仕方ありませんでした。

 道場と内弟子の関係について私が、つまり日本館が意図としている事はなかなか現在のアメリカ人の「価値観」にはマッチしないのです。「教えない、デレクションすら与えない」のですから。これなら金を払って内弟子になる意味が無いということになります。しかしその意味の無い状態から始める事に内弟子の意義があります。
 内弟子生活と云うのは何か特別な雰囲気の中で集中的に稽古をし、誰よりも早く合気道をマスターし、自分も改善されると思って入る者、単に、ガールフレンドや妻に愛想をつかれ「オレ、内弟子やって鍛えてくるから」「もう悪から足洗って、内弟子でもやってくるから」という夢やポーズでは勤まらないのです。
 多くの海外日本人合気道パイオニア師範はゼロ以前の状態から始まりました。多くの苦労と体験を重ね、その結果として今日があります。私も同様で、アメリカに渡り30年以を越え、多くの素晴らしい門下生に支えられたとは云え、結局は私自身の判断と責任で日本館を引っ張ってきました。とくに私は渡米以前から独立道場としてやっており、米国では頼る師範も無くその高名にすがる事も出来ずたった一人で日本館(艦)の舵を取ってきました。
 孤独、不安、挫折、混乱、明日の見えない毎日を暗中手探りで一つずつ方向を確かめ、そして現在があります。しかし、これまでひと時も欠かさず唱え実践してきたのが「稽古、工夫」でした。そしてこの米国30年の蓄積された経験の中から結局得られた指導理念は「教えない指導」と言う事でした。私の仕事は道場の屋根を支えているだけ、村はずれの地蔵さんのように「そこに居るだけで良し」の立場を貫く事にあると考えました。
 情報過多の合気道界で、子供が世界中の車種を言い当てるように、合気道の歴史や指導者の流派氏名を語り、語源もわからない日本語を並べ、情報から抜き取った合気道哲学をあたかも自ら得たように振舞う指導者や稽古者が多い中で、自らの稽古、工夫によってそれらを納めた指導者や合気道家に出会う事は少なくなりました。食物を食べて己の栄養とした人よりも、サプリメントで育った合気道家や栄養剤に加工して安易に売りつけ、自己の名声とする指導者が多くなったのです。結局は自分で得たものではない与えられた合気道で育った合気道家が育つことになります。
 こうゆう「錯覚」に陥った人を救うのが内弟子修行ではありません。他人の私には残念ながら救う事はできません。しかし、道場に内弟子として放り込み、実際はサプリメントが無ければ何も出来ない自分に気がつき、自ら食物の生産が出来なければこの道場では脱落してしまう事を考えさせる機会を与える事は出来ます。本人が自己の立場に気が付かない以上、私や日本館の指導スタッフにとっては内弟子に費やす時間はまったくの無駄な時間となるのです。合気道の技や心はそれに気がついた頃に本格的に始めても遅くないと思っています。
 これまでアメリカ人内弟子を多く受け入れた経験から、日本館の内弟子を成就した人物と云うのは、日本館の内弟子修行によって成就したのではなく、内弟子以前に自ら考え、行動を起こせる人物であったから成就したと私は考えています。

書き出しの青年の話に戻りましょう。
 彼の名前はアルマンド.エスペノーザ君。ニカラグア生まれの23才です。ニカラグアの首都マグアナのニカラグア工科大学法学部の3年です。18歳の時に足首に癌が見つかり、太ももの付け根から片足を切断しました。その後、腎臓を一つ摘出、渡米を楽しみにしていた今年の春、肺に陰が見つかり手術をしました。帰国後は残った腎臓を摘出します。

彼との出会い、そして米国の総本部に来ることになった経緯は過去の記事でご覧ください。
■AHAN本部ニカラグアに医師派遣
■AHAN日本館ニカラグア開設
  

 彼は義足を付けた不自由な体で前受身も、後ろ受身も、そして飛び受身もチャレンジしました。彼は云いました「元気になってみんなと同じ事をしたい」稽古中に義足の中に沈む体を時々直しながら一心に稽古をしました。
 彼の渡米滞在の陰には多くの日本館メンバーの協力がありました。渡米費用を集めるためのテーシャツ販売は二度とも完売しました。彼の滞在中に少しでも彼の専攻する法学部関係そして彼の希望する福祉関係の訪問、研修をしてもらいたく、日本館メンバーにその機会が無いか聞いたところ瞬く間に多くの関係者が名乗り出てくれました。そして関係した多くの方々が親身になってお世話をしてくれました。彼が存在しなければこんな素晴らしい人たちとの出会いは無かった事でしょう。
 土曜日の昼、忙しい日本館レストランDOMOで汚れた食器を下げているアルマンド君の姿がありました。誰も頼んではいません。私は危なっかしい彼の動きを見て止めようと思いましたがそっとしておく事にしました。
 朝の道場掃除から日中の研修、夜の稽古。健全な人となんら変わらない彼の努力は、心を打つ多くの感動を与えてくれました。おそらく彼と接した方々も同じ感動を持ったことでしょう。
 二人で語ったとき彼は云いました。「生きたい。生きて私のお世話をしてくれた多くの方々にお返ししたい」彼は自分に残された時間に限度があることを自覚していました。「私にニカラグアAHANの世話人をやらせてください」彼がその美しい瞳を輝かせて求めました。私は「勿論」と言ったあと言葉は出ませんでした。

 貴方は私たちに多くの事を考えさせる時間をくれました。貴方の貴重な時間を使ってまで。本当に感謝しています。ありがとう。たった二週間の内弟子体験でしたが、その努力はこれまで成就したどんな内弟子より心に残った価値深いものでした。

最後にこのプロジェクトをさせてくれた多くの日本館メンバーにも深く感謝申し上げます。誠にありがとうございました。


民俗資料館を早朝の掃除

道場ロビーをバキューム


細かいところも

庭の水まき




稽古

自分なりの受身を取る


真剣に指導を受ける

道場仲間の玄ベイと鳩子


読書、日本館庭園にて

日々のレポートを打つ


コンピュータープロジェクトの手伝い

ユースクラスで体験を語る



日曜のミサを終えて

ポリスマンと


スポーツクラブ

研修を終えて


顕微鏡をのぞく

コロラド大学で



コロラドスプリングでブッシュ会長と

アメリカ先住民ミュジアムで

記、使用した写真、アルマンド君の病状等は本人の承諾を得て掲載しています。

     平成18年9月20日記
日本館総本部
館長 本間 学 記


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