館長コラム◆◆  

■伝統技保存師範

 20年ほど前まで、日本館に飛び込み稽古にやってくる3級程度以上の人なら、まず間違いなく上部指導者の名前を当てる事が出来ました。例えば「貴方の先生は00師範ですね」とか「貴方の先生は00師範の門下生ですね」の様にです。
 それは、その訪問者が道場に入り稽古が始まる前にする訪問者個人の動きで殆どわかりました。転換や舟こぎ運動、正座をして叩いたり捻ったりしている様子でわかったのです。以前は指導する師範によって随分と特徴があったのです。開祖がお元気な頃の本部道場でさえ、師範によって個性のある動きと指導法がなされていました。この世を去った師範も含め、人柄が技に出た故大沢師範、しなやかな動きの故山口師範、反対に豪快であった故有川師範、本部日曜稽古で評判となった岩間の故斉藤師範、他武道にも富んだ故西尾師範、現役では、合理的に技を説明した、現心身統一合気道の藤平光一先生、千本稽古で知られた多田師範、座り技の小林保雄師範など実にユニークな師範が沢山おりました。米国の場合、当時合気会師範部長であった藤平光一会長の影響が強いのですが、其々のパイオニア師範は日本で修行当時の師範の癖を持っていました。藤平傘下ではありませんでしたが、現在の日本人パイオニア師範が米国をまとめた頃に渡米した早乙女先生は、故山口師範門下であったため、開祖の動きとは異なるその動きは一目瞭然、山口師範の動きであり、早乙女先生の門下が飛び込み稽古に来た時は直ぐにわかったものです。その他にも富木合気道系、養神館系と其々の特徴有る合気道が展開されていました。
 ところが最近は日本館の飛び込み稽古者や、他の講習会の場で他道場の合気道家と出会っても、師範や流派を引き出すのは難しくなりました。つまり師範からの世代が離れるほど特徴が薄れてしまった為です。また週末には何処でも開かれている其々の道場、流派の講習会に頻繁に参加することによって、「技の交配」が進み、派手でユニークな技がもてはやされるようになり、技の数だけは米国やヨーロッパの方が日本よりはるかに豊富になりました。反面、合気道の技に深みや理合がなく平坦となり、豪快であったり繊細であった、今は亡き高段者たちの姿は偲ばれなくなりました。
 そんな流れの中で、当時の技を引き継いで指導している指導者との出会いは大変貴重なものとなります。なぜなら、演武会用の技ではない、理合いに会った「武術としての技」が残っているからです。

 話が変わりますが、日本でも有名な「グレーシー柔術」は講道館の前田光世氏がブラジルのグレーシー家に教えて現在に残った日本の柔術にそのルーツがありますが、日本にそのルーツをつなぐ事はできません。もはや柔術と講道館柔道とは全く別の物といえます。日本で消え去った武術が姿を変えたとはいえ、遠いブラジルに残されている事は貴重な事と思います。私は米国のデンバーに暮らして30年になりますが、デンバーに居ついた頃には高齢の日本人一世の方々もお元気でお話を聞く機会を沢山持ちました。日本ではすでに出会ったり、聞いたりする事も無くなった、言語、習慣、料理など、今でもその頃の記録は数冊のノートとなって私の大切な記録となっています。日本から遠く離れたところに思わぬ「歴史」が埋もれているのです。

 今回訪問したモロッコにおいて、私はそんな合気道指導者と出会いました。
モロッコ修道館合気道場のマバラック.アラウイ先生です。現在、モロッコ国内には135前後の道場があり、5000人の合気道家がいるとされています。
その内3000人はアラウイ先生がつい最近まで事務局長をしていたモロッコ合気道連盟に属しています。


指導するアラウイ先生

 モロッコ合気道はすでに50年前から主都カサブランカを中心に稽古が始まっていたそうで、モロッコでの合気道は1956年フランスからの独立以前から稽古されていたことになります。フランスで修行をしたアラウイ先生は1965年からモロッコの合気道指導者として多くの門下生を指導し、現在ではアフリカ全土で活躍されています。
 1952年には岩間で内弟子修行をした経験を持つ阿部正師範がフランスに渡り、その後1964年に田村信喜師範が合気会本部からフランスに派遣され、それ以後モロッコはフランスの田村師範を筆頭師範とする「フランスの植民地合気道」のような状態が続いている、と有る幹部が漏らしました。
 モロッコ合気道の幹部の中には、「田村師範も70歳を超え、将来の混乱を避けるためにも、フランスを経由しない"モロッコ独自"の合気道団体として本部と直接の連携を保ちたいと強く希望しているのですが、複雑な人間関係や利害関係が絡み現在のところは足踏み状態です」と両手を大きく開き肩をすくめました。
 話の内容は、最近どこの国の合気道界でも語られている「日本人師範から現地人指導者への世代交代」や「日本人師範植民地支部からの独立」などで、決して珍しくもなく、私は黙ってミント茶をすするだけでした。

 それよりも感動したのはアラウイ先生の技と指導法でした。72歳のアラウイ先生は自由自在に弟子たちを投げ、その動きは馴れ合いの指先合気道ではなく、しっかりと理に合った動きをごく自然に繰り出しました。稽古の合間には巧みな話術をもって門下生の心を掴み、それはモロッコ語の理解できない私にとっても充分に感じられました。指導技、例えば小手返し一つとっても理にかなった指導がされ、久しぶりに「理にかなう技」を指導される師範と出会いました。
 現在の小手返しは、相手の小手を電球でも回すように捻りながら相手の腕ごと大きく回し、なるべく遠くに派手に飛ぶようになげる「演武受身」が「正統」となっていますが、こういった技は全く他の攻撃を意識しない「ハウスペット」のような技といえます。こういった投げ方をしたら、空手を1年程度やった元気の良い人に、脇腹、側頭部に連発の蹴りを入れられる事でしょう。いつ頃からこうなったのかは定かではありませんが、大学に合気道部や愛好会ができ、全日本学生合気道演武会がその始まりのような気がします。各大学が派手な受身を競い合ったためです。そういった大学から指導者となった人から広がったと私は考えています。岩間を始めとする古参の開祖の門下生が指導する町道場ではその様な事は見られませんでした。現に開祖の古い写真やフィルムの小手返しは大きく違っています。相手の攻撃を捌き、体を開いて向かい合った時にはすでに相手の小手のすべての指が相手の脈部の方向に巻き込まれて蹴りや突きなどの出来ない状態になるのが伝統的でした。(もちろん、現在もそうした稽古をしている道場は有るでしょうが。)

 海外の現地人指導者の中には、過去において古参の日本人師範から指導を受けなんらかの関係で独立し、そのままの状態で、古参の伝統的な技を仕込んだままの指導者がいます。特に余り交流の無い、例えば米国のように幾つもの合気道流派や団体が常にオープンで講習会を開き「ミックスサラダ」となってしまう事の少ない国に多いようです。

 この記事のおかしなタイトル「伝統技保存師範」の意味がお解かり戴けたと思います。60年代に国際的指導理念や組織上のルールも整わないまま多くの「大志有る若き合気道家」が世界に飛び出しました。その若き合気道家も70歳代、多くの高段者の方々も後を追うように世を去っています。そういった師範から指導を受けた現地国の指導者は、大切な先駆者達の技を引き継ぎました。特にミックスサラダとならないで活躍している方々には「伝統技保存師範」としてもっと敬意を表すべきと私は考えています。
 最近、ともするとこういった指導者を「伝統派」英語ではトレデッショナル.スタイルなど分けて、実際は崩れた技を正当化している若い指導者が多くいます。合気道開祖植芝盛平翁は多くの門下生に自己の修行変化に添った技を残しました。その門下生の中には合気会と異なる団体を起こし、開祖の技を残した指導者も多くいます。勿論、日本人だけが優秀なる合気道家では有りませんし、ましてや血筋だけが正統な合気道とする考えに疑問を感じる人も多いことでしょう。養神館合気道も富木合気道も立派な合気道です。
 合気道家は流派、団体にこだわらず、積極的にこういった指導者の教えを受け、伝統技の継承に努める必要が有ると私は思います。そういった寛容な心の持ち方が、結局は合気道界、武道界全体の社会に於ける支持を高めるものと思うのです。

 今回の訪問は昨年トルコで出会った「世界平和女性連合」の女性スタッフからモロッコの合気道、とくに「女性と合気道に関して」支援して欲しいとの依頼での訪問でしたが、会場には150名余り(内、女性は5名)の合気道家が集まり、私、シニア海外青年協力隊として滞在し4月に任期を終える西山猛朗先生、そしてアラウイ先生の3人で交流指導をする事ができました。


指導するアラウイ先生

本間館長の指導

 モロッコ合気道家のレベルは高く稽古熱心であり、また門下生の方々は大変親切に我々一行の世話をしてくれ、その蔭には細かいアラウイ先生の気配りが感じられ、深く感謝申し上げる次第です。アラウイ先生の稽古に参加した私は、久しぶりに「興味の沸く稽古」をする事ができました。

 今回の訪問に同行したAHAN本部エミリー.ブッシュ会長とスタッフの日本人女性、吉村和美さんが女性の立場からモロッコ紀行を書いておりますのでご覧下さい。

新しい風 モロッコ訪問を終えて

モロッコで出会った女性たち

       平成17年4月2日
日本館 館長 本間 学 記

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