館長コラム◆◆  

■蔭のない人たち
もう5年位前のことでしょうか。日本館恒例のホームレス食事提供サービスに
寿司レストランでは全米の筆頭格にある「寿司デン」の木崎ご夫妻がボランティアとして参加下さった事があります。
木崎さんは英国留学中の兄を頼って「英国で寿司屋を」と張り切って日本を飛び立ったものの、入管でゴタゴタ、日本に逆戻り。といっても盛大な送別会を背にして旅たった関係上、故郷にも戻れず、東京で更に寿司の修行を積み上げ、今度は米国へ。そして20年を過ぎた今日では、200席、従業員90人の寿司レストランを築き上げ、日本の福岡に支店を持つまでに至りました。その寿司に関する熱意は、多くの人の知るところです。
さて彼のプロファイルはこの位にして、食事サービスの時の話に戻りましょう。いつもの通り300人余りの食事のサービスを終えて一息ついた頃、奥さんの道子さんが目を真っ赤にしているのに気がつきました。実は14年にもなるこのサービスに参加されたゲストボランティアの中には、やはり色々な思いから感情をこらえ切れなくなる方もおられました。しかしその殆どは若い方たちで、道子さんの様に毎日4−500人のお客のある店を切り回す「女将」の目が赤くなっているのを見て私は少し驚きました。
道子さんは隠すように鼻をススリながら云いました。「なんでこんなに成ってしまったのでしょうね。この人たちに比べればなんと私達は幸せな事か、なんと運がよかった事か」と。でも私は心の中で呟きました。奥さんやご主人はこんな情愛ある感性を持っているから、運も幸福も繁栄もついてくるのですよ、と。

そんな木崎さんと最近、久しぶりに話す機会がありました。しかし内容は重苦しいものでした。
日本の支店を訪問してる間に、数人のデンバー本店の従業員が他の店に引き抜かれたというのです。しかも、よく面倒を見ていた日本人スタッフが中心となっていたのだそうです。
もう15年以上もお付き合いさせて戴く中で、こういった話は幾度も聞いていましたが、今回のように、社長である木崎さんの留守中に示し合わせてやられたのはやはりだいぶ応えたようでした。それよりも木崎さんにとってショックだったのは、キッチンだけでも30人ばかりのスタッフの中でそういったことが密かに行われ、その兆候を一切気がつかないで居たことにもあるようです。優秀なキッチンスタッフとして心から信じて大事な店をまかせていた人々に裏切られたという絶望感は従業員と経営者との人間関係を維持しようとする木崎さんの心に大きな挫折感を与えたようです。

ライバル同士にある企業のトップが平然と入れ替わる米国において、寿司屋の職人が他の職場に引き抜かれたり、移ったりする事は別に大したことでは有りません。日米にある「転がる石には苔が生えない」の諺の解釈が日本と米国とでは全く異なる事を知れば、腹も立ちません。米国では「転がらないようでは苔が生えてしまう」であり、日本では「転がってばかりいれば苔が生えない」なのです。もしそういった教育を受けて居れば当然その様な行動を取るわけで、せっせと自己のキャリアを積むため、より豊な収入をもとめるため、自己を高評価する場所を求めて移動します。最近はそうでもなくなったようですが、日本はまだまだ「職を転々とし」というのは履歴書の内容が良くても敬遠されるか、採用の大きな要になります。

寿司はいまや米国文化に馴染み、日本人以外の職人が板場に立っているのが普通です。もはや日本人の専問職ではありません。此れまでは就労ビザも「寿司職人」で感単に取得できていたのですが、よほど特殊なレベルにある職人でなければ難しくなっています。現在デンバーとその近在には120軒余りの日本レストランがあります。中には韓国料理や、中華料理などと一緒にやっている店もありそれを入れると150軒を超えるといわれ、そのうち100件以上は大小差があっても寿司バーあります。という事は最低100人の寿司職人が必要であり、明らかに職人は不足し、経験不足の職人がハリウッドの大スターの様になって闊歩するわけです。木崎さんの援助で労働許可を取ったり、或いは指導を受けて「寿司デンシェフ」のタイトルをもって他の店に移籍した人、或いは独立した人は70人を超えるそうです。
特に日本人の場合は、米国就労の世話をしてやり、アパートを捜すまでは自分の家に泊め、やれ銀行は、スーパーはと面倒を見てやり、或いは借金の肩代わりをしてやったり、車の購入や保険の世話、家族の病気の世話までし、勿論自分がそれまで苦労して軌道に乗せたビジネスのノーハウ一切を教え、信じきったその時に「今日で辞めさせて貰います」の一言があればいい方で、翌日からはライバル店で働く。おまけにその多くは自己を正当化する為に、社長である木崎さんに対する否定的な言葉を発するわけです。此れではたまったものではありません。
それでも木崎さんは話を終えるとき「新しく開店した店に行ったのだから移った連中も大きなリスクを抱えて大変でしょう。旨くいって欲しい、と願う事が唯一私の心の支えと成ります」と付け加えました。「FORGIVE」許し、和解する事を、自己の幸福と感じられる木崎夫妻に、私は大きな敬意を持ちました。

さてこのコラムは合気道日本館の合気道に関わるHPのものです。書いている私が一番良く知っています。実は、これまで書いた木崎さんの寿司店の人間模様は私にとっても身につまされる話なのです。身内の事で恥ずかしいのですが、私が率いる日本館にも、まれにですが木崎さんの様な話があります。「まれに」と言うのは、デンバーの日本館本部だけでも、過去29年間に1万5000人の初心者を指導しているわけで、どうしても突然変異というかそんな人も出てきます。でも5-6人ですから数には入りませんが、日本館を出て小さな稽古の集まりを始めた人の中に、皆に祝福されて独立した人はおりません。むしろ何らかのトラブルを残して、多くの仲間にディスアポイントメントを与えた人たちが多いと云うのが残念な実情です。それゆえ、そういった人たちのHPに使う公式な経歴には日本館や指導した私の名前を掲載できない状態となるのです。
先週、ある岩間流の合気道指導者にメールで質問を受けました。それは以前私の道場で稽古していた人に関するものでした。実は同じ様な問い合わせがすでに6通ほど来ていましたし、先日、リノで行われた岩間の斎藤仁弘先生の講習会でも、岩間内弟子出身の方々から質問されました。岩間流の方に言わせると、彼の経歴を読むと恰も岩間で修行したように受け取れるし、斎藤守弘師範やその弟子の一人であった河辺茂元秋田県支部長の恩恵を受けたような表現となっているけど本当か?という経歴に関する確認でした。私は出て行った者は門下生でもないし、人間関係も存在しないので、迷惑を掛けられない限りは無視しているのですが、質問がこれほど重なり、いつまでも私が無視している事は出来なくなりました。それは岩間で血の滲むような修行をされた方々にとっては失礼な事であり、多くの外国人を心から世話をした河辺先生のご意志を無視する事になるからです。
私は、木崎さんの様に寛容でもないし、多くの方々に疑問を与えているようなので、「彼は日本館とは一切関係ありません」という答えから、一歩踏み込んで答えなければならなくなりました。すでにこの春、日本館役員が直接会い、経歴等を明確な表現にするよう直接申し入れましたが、改善はこれまでありません。
この人物が岩間に行ったのは私が紹介して、5日程度岩間を訪問しただけです。最低一ヶ月住み込まなくては弟子にあらずという岩間では、10日にも満たない者は訪問者に過ぎません。「岩間で修行をした」という事は、岩間内弟子成就者の最も大切なステータスなのであって、訪問者が侵すことの出来ないエリアなのです。 
また、河辺師範に関しては弟子であったと云う記録どころか、訪ねたという記憶すら未亡人には有りませんでした。訪問する外国人を御世話するのは奥様でしたから、記憶に無いとは「NO」と判断してもいいでしょう。あとは私がデンバーにご招待した両師範の講習会に参加した程度でしかありません。  
海外遠征なども列挙しているようですが、なぜ、だれと、何をしたのか明記できないのでは経歴とはならないでしょう。
段位は私が河辺先生に推薦し合気会初段があります。それまでは本部に登録された記録はありません。日本館で取得した段位は日本館の規定によって抹消されています。

合気道指導者を名乗る人物の経歴が、「過大表示経歴」ではないかと言う指摘を他人に指摘される事は、すでに日本館を去った人物であっても、日本館として、館長の私として大いに不名誉な事です。多くの岩間出身の方々に疑問と不審を与えた事をこの文章を持って謝罪いたします。
私は医者です、と名乗る者が、学んだ大学や教授、その医療技術の習得先を明示できなくて、はたして患者はどうやってその医者を信じる事が出来るでしょうか。合気道指導者にも全く同じことが言えます。出身道場を明記できない人間関係を残して指導者になってもそれは「自己満足」の世界であり認める人はいません。調べる事は困難だろうと考え、日本滞在などの経歴を過大に書いてもこの情報化の時代、直ぐに足がつくのです。

私は度々、指導者のあり方、特に知名度のある米国の日本人高段者に対してかなりきつい発言を繰り返してきました。しかし、かといって高段指導者が悪いとばかりも言ってられない事は充分知っています。
糸の切れたタコのように道場からはみ出した者は、私の道場でも存在している事であり、ましてや全米規模の組織を持つ高段指導者は数え切れない程の、裏切り、反逆、激怒を体験している事でしょう。その繰り返しから、相互の人間関係を重視する合気道指導者から、組織維持、自己防衛のためビジネスマンとしての合気道指導者に移行しても決しておかしくは有りません。
どの日本人高段者も60年代に稽古着一つ担いで、開祖の激励を授かって合気道普及の為、合気道の存在しなかった米国の地に踏み込んだ純粋な方々です。その高段指導者が変わっていった裏には、「門下生のモラル」も大きく影響しています。
長い間の苦労によって築き上げた技術、指導法、人脈までが、その工夫に人生をかけた人の知る事無く、許可無く持ち去られ、正体不明の道場で売られているようでは、指導者が門下生に絶望を感じて自己防衛に傾いてもおかしくありません。

このコラムは日本語、英語、スペイン語、ポルトガル語に訳されます。このコラムを読んで「それがどうしたの?」と思う人「とんでもない奴!」と思う人と、随分読者の理解度は異なる事でしょう。
最近世界各地の合気道家と接するようになって、正直な私の意見を述べれば、合気道に限らず、寿司職人に限らずアメリカの若い人たちは、「専門職の経験」という事に対して、安易に熟知したと錯覚し、深意に入らず、自己の自由と発展のみ求め、感謝と敬意、そして祈りの存在しない方が他の国の若い方たちより多いような気がするのです。

森林の大木は陰を作り、或いは葉を落とし、その下に生きるものを守り育てます。朽ちてはその大地に溶け込み諸々の生を賄います。私達は多くの人々の蔭の守りによって生かされています。其の蔭の力で大きくなった事に気がつくか付かないかで、その人生すら左右される事でしょう。蔭に守られて育てられた恩恵は持ち出しても、その蔭が何であったのかいえない様であれば、両親の存在を否定して自己の存在を語るようなものでしょう。

日本語挨拶に「こんにちは、如何ですか」という最も使われる日常の言葉があります。その応えは「ハイ、お蔭さまで」です。たとえ都合の悪い事があっても言葉の先に入れます。お蔭様とは諸々の守護を「蔭」に置き換え、さらに敬語の「お」と「様」を付けている言葉です。
この「お蔭」を感じ取れず、いくら羽ばたいても、透明で、存在のない「蔭のない人」になってしまう事でしょう。蔭を創れない人に愛や成功はありません。

私は、このような日本館の醜聞をコラムに書いた事を不名誉な事と思っています。しかしこういった事を黙殺して書かない方が、まだ不名誉な事と考え決断しました。特に、厳しい内弟子修行を成就し合気道指導に励む岩間流の指導者たちの名誉の為にも。

       平成16年10月5日
日本館 館長 本間 学 記

お知らせ:最近、日本館で内弟子をした、或いは、本間館長の下で直接稽古をしたと虚偽の経歴で指導等をしている者がおります。
不審な事がございましたら日本館にお問い合わせ下さい。

筆者より:
 このコラムは私の生活する米国の合気道家を対象として書いたものを、日本語訳したものです。米国における師弟関係、道場と弟子の関係は、日本の方には非常に理解しがたい部分があります。
 
 海外の合気道家にとって、本場日本で僅かでも合気道を稽古したということは、帰国後の大きなステータスとなります。ところが米国の場合はすでにレベルの高い指導者も多く、「日本で稽古した」という価値も薄れてしまい、其の事実を飲み込みきれずに一人歩きを始める人が実に多いのです。
 また、日本滞在中、外人に弱い日本人指導者によって帰国の際、俗に言う「お土産段位」をもらう例が多く、それを「資格」と錯覚し大手を振って帰国することになります。「裸の王様」のストーリーとなるわけです。

 またここで紹介したような、僅かな出会いを、自己の経歴としてしまう例です。「私は守央道主のもとで稽古をした」と経歴に書きましても、事実は道主の朝稽古に数回出ただけ、などであったりします。確かに事実でも、それでは本部道場で稽古する人は全員が「道主の弟子」と経歴に書くことができます。しかし日本人ではそのように記入する人はいません。しかし遠く海外から費用をかけていった人にとっては大きな価値のあることなどです。

 日本で修行をした外国人の中には、大変に素晴らしい方が多い反面、私が紹介した様な人物も少なくありません。

 日本国内の指導者、特にあまり外国人に縁のない(経験のない)地方の指導者は充分に「外国人に対する指導法対処法」を考慮する必要があるでしょう。こういった「外国人に弱い日本人」を充分に知っていて、上手に渡り歩く「日本びいき」も多いのです。国際交流といって、自己の道場に外人がいることを暗に自慢しているような事では本当の国際交流とは言えないでしょう。


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