館長コラム◆◆  

■野に立つ
  岩間神信合気修練会発足式に参加して
この文を書くに当って先ず困った事があります。なんと呼ぶか?です。ヒトちゃん、HITOHIRO、仁弘さん、仁弘先生、斉藤先生、師範、塾長――。考えてみれば出世魚みたいです。岩間の神社を駆け回る子供の頃から、威風堂々たる指導中の現在に至るまで、そこには大きな時間が存在します。私はここでは仁弘先生と呼ぶ事にしました。ヒトちゃんと思う人も、仁弘塾長と思う人もおられるでしょうがーーー。

350人余りの人がお祝いに集まってくれたそうです。「予定だと320人前後だったけど、気が変わって飛び込みも有った様で」と前日の祝賀会の疲れも見せず、道場に泊まりこんだ人々に朝飯を勧めながら仁弘先生は云いました。
仁弘先生は合気の里、岩間に生まれ、合気道開祖植芝盛平の髪の毛や髭を自在にむしった「根っからの合気キッド」です。父は23年間に渡り開祖から指導を受け、開祖亡き後33年間の永きに渡り、岩間合気神社守りをし平成14年に亡くなった世界的合気道家、合気会師範故斎藤守弘9段です。失礼な表現かもしれませんが岩間に生まれ育った仁弘先生は血統書付きのサラブレッドなのです。
なんとそのサラブレッドが、岩間に縁のある世界中の人々を驚かす事をしでかしました。合気会に別れを告げ、野に飛び出してしまったのです。世界中それは大変でした。自分は、道場はどうなるのか、彼に就いていくべきか、それとも浪人となるのか、「殿中松の廊下」事件後の家臣達の取り乱しのシーンと言えばピンと来る人も多いと思います。でも身近の人は驚く事もありませんでした。
仁弘先生には数千ページを費やしても書き切れない程の事柄が彼の胸底に存在していたのは「常識」となっており、いつそれが起きても不思議ではなかったのです。勿論「俺だってそのくらいあるよ」と反論する人もいるでしょうが。恐らく爺さん,婆さんの頃からの人間関係が複雑に絡み合う土地柄の岩間で、「何事もなく」と沈黙を守った人も多かったことでしょう。それぞれを互いに「忠臣いや不忠臣」と指差し合う事だけは避けたいと願った純粋な門下生も私は随分知っています。何しろ日本と言うのは「中間」を認めてくれません。特にこういった場合はそんな事をすると「信用できない奴」となって、どちらかに行かなければならない悪習があります。

私達は、過去の歴史において偉大な父や指導者を持ったが為に、野に下る事になった宿命の人々を、絵本に始まり伝記、歴史書で身近なものにしてきました。日本人にはそういった人物に好意的であり、宿命や無常感を思う国民性みたいな心をもっている様です。今回の仁弘さんの挙行は私のそういった心を多いに揺さぶりました。
私は帰国の折,時間の許す限り南紀の熊野、高野山と足を運びます。古の人々が歩んだ、その磨り減った古道を訪ねるとき、心が紐解け、開放されるのです。とくに高野山奥の院への2キロ余りの参道に立ち並ぶ苔むした武将たちの墓の間を歩くとき、合戦の声が、断末魔の声が、憎しみ罵る声が飛び交います。策略、裏切り、和議、首を取った武将、取られた武将。しかし時と供に僅かの距離をおいて同じ土の下に葬られるのです。どんなに勢力を誇った者も、忠臣を持って命を捧げた者も、卑怯をもって天下を取った者も,名将と慕われた者すらさえも、命あるもの必ずや行き着く場がこの道の路傍なのです。開山1200年の静けさは「無常、世は何事も無し」を鳥肌が立つほどに感じさせてくれる場所です。仁弘先生の今回の独立など、繰り返された過去の歴史からみたら、ジェット機から一匹のアリの動きをトヤカク言うようなものです。目を細めて祝福する意外は、誰を諫める事も出来ないのです。

 仁弘先生は心を許す多くの門下生と新しい旅に出ました。旅を供にしたかったけれど、踏ん張ってこらえた人も多いでしょう。最も辛かったのはこんな人たちであり長い間の大切なものを失ってしまった人もいる事でしょう。でも心で涙し、見えなくなるまで手を振って分かれた人の気持ちもやがては仁弘先生に分かってもらえる事でしょう。
仁弘先生の人生は「彼のもの」であって、彼の夢を、目的を、探究の心を、幸せを感ずる心を、他人がトヤカク言う事は出来ません。他人の人生の選択を酒の肴にして一言ぶったところで人格が読まれるだけで徳にもならない事です。むしろ祝福し励ます事の方がどれほど旨い酒が飲める事でしょうか。

仁弘先生の父、守弘師範は嵐の人でした。合気道師範個人としてこの人ほど世界中に門下生を育てた人は居ない事でしょう。また、合気会の組織に平然と活を入れ、薄っぺらな師範など一刀両断。震え上がった人も数知れず、当然反目する人も多かったでしょう。しかしこの嵐の人の前に堂々と立ちふさがった人もいないようでした。結局師範のお元気なうちは誰一人何も云えなかったのに、やがて師範がこの世を去って、利権の伴なう空席が出来ると、状況が変わってきました。  
仁弘先生は父の死後、岩間道場の道場長代行の命を道主より拝命しましたが、周囲を取り巻く風に濁りを感じ、特に実父守弘の屈辱的風評を聞くに至っては忍耐の限度を感じ、斉藤家の名誉の為に、平然としかも堂々と野に出て合気会に別れを告げ「岩間神信合気修練会」を立ち上げたのです。


門下生紹介

祝賀会には当然参加すべき人々が諸事多忙らしく参加せず、56年間に渡って関係のあった合気会、植芝家からも代参どころか音沙汰ひとつなかったのは大変理解に苦しみました。「合気道は愛なり」など何処に行ってしまったものか情けなくなりました。個人の立場と明言して本部師範がお一人見えられたのが唯一の面目でした。代理でもいいから送り出し、僅かでもいいから将来の扉を確保するほどの策を講じなかったのは、やはり人情のかけらもない「追い落とし」であったとの疑問は永く残る事でしょう。仁弘先生は守弘師範ではありません。息子です。私はこの判断が決して道主のお考えではないと信じたいのです。昔は供に遊んだ仲だと聞いております。しかしお立場ともなれば個人のお考えは通らないと充分好意的に結論したとして、そういった情けのない助言をした策士たちにも目を向けていただきたいのです。私は合気会と斉藤家で交わした念書を拝見しました。そこに捺印をした後は双方に何事も残らないはずです。いわば握手を交わしたと同様です。なぜ祝いの言葉なり激励を公の席で出来なかったのかを疑問に感じるのは私だけではないでしょう。「一皮残して」忘れたくない慈悲の心です。

話が陰湿になりました。もう少し爽やかな話を書きましょうか。
互いに隣席の人々が自己紹介を終え、鏡割り、乾杯とひとしきり賑やかになった頃でしょうか、「それではーー」と言う紹介で静まり返った壇上に小柄な紳士が立ちました。何か拍手を躊躇するような間が有って、やがて大きな拍手となりました。其の小柄な紳士、養神館井上強一館長は几帳面なお辞儀を会場にした後、静かに話し始めました。岩間との縁について「私の師である塩田剛三前館長は終戦後の引き上げで、家族と一時岩間道場に生活し仁弘先生のお父様の守弘師範とは懇親の中であったとよく話されていました。又、私が警視庁の方々に指導していた折、其の集中指導終了記念に合気神社に全員で参拝するのが恒例でしたが、その時、守弘師範は常に歓待をしてくれた楽しい想い出があります」そう前置きして、極めて明確にしっかりとした口調で仁弘さんに祝辞を述べました。私はなぜか井上館長に、日本人が今見失い、探し求めている「何か」を感じたのです。清廉さ、潔白さ、義理、人情、何であるかは確定できない人間味でしょうか。
井上館長が祝辞を述べる前に私と雑談を交わす時間がありました。「この会に行くと云ったらね、周りの者がチョット心配しましてね。合気会との関係の事ですが、私はこう云いました。以前何かと御世話になった方の息子さんが新しい道を歩まれようとしているのにお祝いに行って何が悪いの、周囲の目を気にして、自己の立場のみ考えるようではね、何か大切なものを失ってしまいますよ、と云って、来たんです」とお聞きしていたのです。
私は井上館長に初めてお目にかかったのは昨年9月、ラスベガスで開かれたアイキエキスポの時でした。アメリカ生活が長くなり礼儀もまごつく私に丁寧に挨拶してくれた事が強い印象となっていました。そして岩間での再会時には「やーやー」と言ってわざわざ立ち上がって挨拶してくれました。祝賀会とは云え事情の複雑な事を知っている私にとって井上館長の存在はとても大きく光って見えました。挨拶にやってくる方々に几帳面に応対し、やがて立ち上がって、親族として会場の奥の方にあった斉藤家のテーブルに行き、守弘師範未亡人に優しく声を掛けている姿を見ました。お供の方の緊張を見れば、稽古時の厳しさが充分伝わってくる反面、未亡人の前に立つ姿には慈愛に満ちた紳士の姿がありました。私は「指導者」たる人間性を知るたいへん良い機会を得たとこの出会いを大変感謝しています。


壇上の井上館長

守弘師範未亡人に話しかける井上館長

この発足式にもう一人大変ユニークな人が駆けつけました。現、光気会合気道会長の丸山修二(修道)先生です。アメリカの合気道開拓者の一人として1966年に合気会本部から派遣された方です。ニューヨークの山田師範たちと供に命がけの合気会合気道普及に努めながらも、藤平光一氏の合気会からの独立に加わり、その後、その団体である気の研究会からも独立、現在の光気会を興し、波乱の合気道人生を過され、現在は「沈黙の合気道家」として世界各国で活躍されている方です。私は丸山会長に14歳のとき初めて合気道の指導を受けた関係上、今でも何かと教えを戴いているのですが、何かの雑談の折この発足式の事を話しました。私はなんの期待もなく「出掛けませんか?」と尋ねました。丸山会長は「倅は知らないけど親爺は良い人だった、よし、考えておく」と意外な答えが返ってきました。上野駅でバックを担いだ丸山会長を出迎えるとは思いもよりませんでした。

考えてみれば養神館も富木合気道も気の研究会(気合気道)も開祖の下から離れた団体です。気の研究会からは更に多く指導者が分かれ、平成後の合気会からも同様の事がおきています。ついこの前まで供に汗を流して恩師のために情熱をかけて頑張っていた人々が、青春の殆どを自己を省みる事無く恩師に捧げた人々が、互いに袂を分かつ事は当事者以外、理解しがたい大変な事であったでしょう。又それは恩師のみならず同志との別れでもあったはずです。
この会に丸山会長が飄々と現れたのには、仁弘先生の決心に対して、過ぎ去った若き日を重ね合わせるように、心底から彼の門出を祝いたい純粋な心が私には感じられました。丸山会長はホテルに戻り私に話しました。「なんだかんだ云ったってアレだけの人数が集まる。学、俺が分かれ時はいつも一人から始めた。大変だった」奇しくも40年のお付き合いで、私が初めて聞いた丸山会長の苦労話となりました。「供に頑張った同志達と別れる事は辛かったけど、どうしようもなかった。合気道ジャーナル(失礼)なんかで一行で表現されるような生易しいものではなかった。あの頃は山田だって、金井だって塩平だって皆おんなじ気持ちだったろう。あの頃は」合気道に人生をかけた者の隠さない本音であり、アメリカで「沈黙の合気道開拓者」と言われる、丸山会長のこの会への参列は意義の深いものがあったと思うのです。


寛がれる仁弘先生、丸山会長、筆者

 仁弘先生、貴方はまだお若い。これから大変なご苦労が待ち構えている事は、仁弘先生自ら述べている通りです。しかし若い仁弘先生にしか出来ない事が沢山あります。岩間は世界中から修行者が集まります。もはや合気道は「我が国」のものではなく、「世界の合気道」です。地縁血縁の地域感覚に振り回されているようではとても世界の仁弘にはなれません。胸を張って威風堂々と大道を歩んで下さい。多くの人々が仁弘先生の明日に応援しています。

仁弘先生の新道場、胆錬館に、代々使い古した鍋釜が置かれていました。守弘師範の「食事したか!食っていけ!」の大きな声が未だに聞こえてきました。
いったい、どれだけの人がこの鍋釜で食事をした事でしょうか。仁弘先生、サー飯を炊け、鍋にぶち込め!腹が減っては戦が出来ない。


岩間を最も知る鍋と釜

 

                        平成16年3月8日記
日本館 館長 本間 学

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