館長コラム◆◆  

■日本語版HPの開設にあたり 「新しい武道の流れを考える」

多くのみなさまの御協力で日本語版のHPを開くことができました。日本国内でボランティア活動のあり方が話題となっていることを背景に「もっと日本館の活動を日本でも紹介すべきだ」との要望から、編集が急がれていました。
みなさまの率直なご意見をいただき、今後のさらなる発展の為の資料にしたいと考えております。

よくアメリカや海外での指導や講演で「道場のあり方」に付いて質問を受けることがあります。そんなとき私は、日本的表現で説明すれば、「高速道路の道の駅かな」と答えます。東へ西へ旅をする人々が憩いを求め、あるいは情報を求め、車を点検し、そしてそれぞれの目的地にむかって、さらなる旅を続けます。道の駅は商品や情報、サービス設備も充実し、かつ常に話題性も必要とし、特に駅のある地域の特性を尊重した内容を盛り込むことも大切でしょう。
道場とはそんな場所、と私は考えて、その理想の実現に努力して参りまた。ところが周囲の現状を顧みてみますと、多くの道の駅、すなわち道場は強固な高層ビルに変貌し、入門者ばかりか社会全体に対しても、利用に際して敷居の高い「閉ざされた門人だけの道場」となっている傾向が見られます。しかし、こういった傾向が続けば、道場はまさに「砂上の楼閣」と化し、砂山が吹き飛び流されたら、その維持すら難しくなります。

最近、講道館において「柔道ルネッサンス」というキャンペーンが行なわれています。柔道本来のあり方、加納治五郎が残した「精力善用」「自他共栄」8文字の大切さを見直そうとの積極的な活動です。競技選手中心となり、町道場の役割を忘れていたのではだめだ、という反省からのようです。素晴らしいことと私は思います。

一般的に日本では武道を筆頭に、「習い事は奥が深く、その道を極めるまではーー」などという固定観念があり、加えて家元、協会、団体、委員会などの組織によって結ばれ固められています。武道は、スキーや野球、サッカー、ボクシング、レスリングなどとなんら変わることもない「運動」のひとつであり、お茶やお花は、海外にもそれぞれの文化として存在するのに、日本文化だけは、それに「道」を付けて特殊性をアピールします。日本文化の唯一大きな特徴は「道」がつくことであり、日本人指導者自身が「道」に溺れていることです。日本人武道家ほどこの傾向がつよく、さらにそれを補うように日本人的精神論と特殊な愛国心すら前面に押し出します。更に滑稽なのは其れを日本人以外の人々に充分な語学力もないのに写しだそうとすることです。

「自分は特攻隊の生き残りだ」と米国人の集まる演武会で切り出すのが定番の合気道師範がいました。本人はその言葉で自分の一切を表現でき、さらには日本論もサムライ根性も理解せしめたと自己満足している訳です。しかし少し教養のあるアメリカ人なら皮肉を込めて「死ねないで帰って来たのかな,エ、訓練学校にいたの、それで戦争が終わって、それじゃう我々が命を助けたようなもんだな、」と仲間内で囁きながらも「ハーィ先生」と最敬礼をするのです。その最敬礼すら、実は日本人がそうするからしているだけなのに、日本人の方では、「イヤー外人さんなのに礼儀が正しいもんだ」と勝手に自己解釈し、時としてそばにいる子どもに、「見てみろ、外人だってこんなに礼儀が正しいぞ。良く見習え」と説教をするほど飛躍してしまうのです。背景が理解できずにいて自己満足する反面、その満足を傷つける事柄に対して日本人はたいへんな拒絶反応をおこします。武道に限らず「日本の、日本は」という言葉はよく聞くことです。もちろん「の、は」の後には日本文化を賞賛する言葉がならびます。

日本館がスタートしたころ、日本のある茶道の家元で5年間内弟子をしたアメリカ人の方が快くボランテアを引き受けてくださり、見事な指導で多くのアメリカ人の方に喜んでいただいたのですが、ある日一通の手紙が届きました。その手紙の内容は、私たちの活動、すなわち当時クラスを開いていた合気道はもちろん、お花,お茶、書道、日本語などすべてにおよび「アメリカ人にそう簡単に日本文化を安売りしては困る。第一、いくらお茶の作法動作が出来ても日本人の精神は指導できない」という内容でした。これなどは一見愛国主義的に装っているけれど、強い自民族中心主義(ethnocentrism)による拒絶反応に過ぎません。米国のすし店で日本人学生アルバイトの俄か板前よりはるかに良い仕事をするアメリカ人がすしを握っても、それを認めない日本人は意外と多いのです。

1960年代、アメリカはブルースリーブーム。当時は街の角々に道場がありました。日本の武道家も、個人で大きな野望を持って来た者、あるいは正式に組織団体から派遣された者などが、「サムライ根性、大和魂、」と、あたかも斬り込み隊のごとく押し寄せました。「アメ公に日本人魂叩き込んでやる」。そんな言葉が飛び交いました。そして40年、柔道はもう大和魂などと豪語できなくり、伝統空手は他国の選手にトロフィーを奪われ,それどころか入門者不足から優秀な選手が育たず、加えて、日本人師範も高齢化が進み、ますますの生徒離れが進んでいます。あれほどあった日本武道道場もだいぶ少なくなったにもかかわらず、日本人指導者は「武道道場もだいぶ整理されて来た、これからは本物が残る。良いことだ」と実に現状認識に乏しい解釈をしています。

さて本当にそうでしょうか?日本館では機会あるごとにいろいろな武道道場にDMを郵送します。多いときは5000通にもなります。コロラド州だけでも600通以上、しかし、その半数が戻って来ます。住所に道場が存在しないのです。ところが、6ヶ月で半分なくなりますが、6ヶ月後には同数の異なった道場の住所を集める事が出来ます。道場は整理されているどころか、実際は整理されながらも増えているのです。つまり日本人が把握できない別の世界で武道は発展しているのです。
では合気道はどうでしょう。家元制度など理解しがたいアメリカ人にとって、試合のない合気道は、試合のある他の武道の様に根性で戦うこともなく、自己判断、決断次第で「先生」となり、「道場主」に成れるのです。そこには日本的な精神論など全く必要としないのです。チャンピオンの肩書きも、上部団体の許可も必要ないのです。それまでキチンと授業料をはらい、自分で買い取ったものであり、それを指導するのに国家資格が必要でもないのです。日本人の方は「とんでもない奴」と思う人も多いでしょうが、むしろアメリカ人門下生の中には、「二面性の日本文化」を見抜き、この異文化の精神論なるものを自己の深い教養と常識を基に手に取って眺めていただけの人も多いのです。ボクシングにもフットボールにもバスケットボールにも誇り高き精神論が存在し、アメリカン魂があるのです。

第一その精神論なるもの、サムライ根性たるものを「これだよ」と説明し実践した日本人武道家など居ないのです。サムライ根性とは?、と聞いたら、いきなり「こーだ」と殴ったり、一升の酒を飲み干したり、真冬のNYマンハッタンを稽古着のパンツひとつ、しかも素足で走ったりと、お笑い番組のようなことをする程度のものなのです。私は非常に近いうちに日本人指導者は必要とされなくなると感じています。いや、「疎外」されると言う表現に近いかもしれません。大和魂やカリスマ的リーダーでは、将来の合気道をまとめる事は困難となるでしょう。アメリカは移民の国、いろいろの文化を飲み込み消化してしまう国です。

「合気道には合気がある」とか「気がある」とか言ってみたところで、合気道を知らない者にとっては所詮なんの抵抗もしない相手を投げているに過ぎません。
知らない者に「奥が深い」と言ったところで答えにはなっていません。プロバスケットの選手が5人の敵に囲まれて激しく動きながら、相手を,蹴るわけでもなく、突き放すわけでもなく、コートの中心あたりから一瞬のうちにシュートを決める。この技術に比べれば合気道には説得力がありません。合気道は現在に至るまで、この説得力の弱さを、愛だ平和だ協調だとの言葉で包み込んできました。しかし、此れは開祖植芝がその晩年に人生を振り返る言葉として、80年の人生があって発した言葉であって、残された者が、これを伝家の宝刀のよう振り回したところで、やがてはメッキが剥がれ落ちてしまいます。つまり、言葉だけの実践を伴なわない薄っぺらなものと気がついた門下生のなかには、いとも簡単に自分の道場を開く人も出てきたり、あるいはこの道を去る人すらいるのです。

これからの海外における日本武道指導は、従来の高いところに安座するのではなく、視線の高さを門人と同じくし、かつ同方向をむいた解り易い指導法、道場運営が求められます。忘れてならないのは、武道のみならず、過去に日本人が自信を持って大和魂的精神論なるものをスローガンとして行なった多くの事柄が、是非は別として、近隣の国々とのより深い友好関係構築において今日まで燻っているということです。私は、その頃からなんら前進していないのが武道界の現状のような気がするのです。変化したのは、近隣の国々のみならず世界中にこの傾向がみられるようになったことでしょう。現にアメリカ、ヨーロッパなどでは「日本人指導者離れ」それが「日本離れ」にまですすんでいる現状を知る私にとって、将来、「世界における日本」を考えたとき、武道家のはたすやくめ、すすむべき方向がわかるような気がするのです。

私が展開している道場運営は、上下に構築された従来の道場とは異なり、左右前後に広がるもので,他とは大きく異なるものです。上下の関係は同族関係が中心となり、横の関係は見知らぬ人々との接点が多く、これらの人びとと同位同方向に展開できる事により、多くの支持を得ることで日本館は大成功を収めているのです。

この横の展開は現地の人々に喜ばれ、支持が生まれ、門下生も誇りを持ち、当然入門者も増加します。こういった日本館のケースを、日本の武道家、とくに海外普及を考える方や、あるいは道場のあり方をもう一度考えてみようという前向きの方へご紹介し、将来の海外における武道普及と日本国内の町道場のあり方に何か新しい風が吹くことを願って、今回、日本語版HPを開設したわけです。

日本館の例は必ずしも各国に通用するものではありません。その国々の政治、宗教、経済、習慣など社会的背景によって、合気道の稽古の目的すらまったく異なっています。しかし共通していることがあります。それは合気道に対する「期待、夢」です。指導者は常に其れが叶えてあげられるように、豊富で新鮮な品揃えと企画、腰を低くした顧客サービス、まさに「道の駅」のように旅人たちの安らぎの場としての道場運営を自ら行い実践しなくてはなりません。

合気道が愛だ平和だと唱えるのであれば、開発途上国の合気道家達が上部団体に払う金がなく、審査もできず1級で留まっている実情に対して基金を作り援助するなり、現地通貨を考慮した具体的な行動を示さなければ、やがてはこういった国々の道友にも背を向けられる事になるでしょう。

真の大和魂、サムライ根性は矛を収め、平常人となった時にこそ、海外の道友に理解されると私は考えております。肥大化した現状維持重視の組織構造、それを守り維持する為の細かい規則、極端に後手にまわる現状の認識、その不足を包み込む根性、精神論、さらには其の組織内における利権や地位争い、これこそ日本武道がいま頭打ちになっている原因であり、海外の優秀な道友が組織を去る最大の原因でもあります。日本の武道界はもう一度町道場の頃の原点に返って考えてみるのも大切でしょう。

日本館は私のこういったオピニオンの実践の場です。日本館の道場運営のあり方は、武道文化紹介のアプローチとしては「NEW WAY 」と言えると思います。
このHPが皆様に何らかの参考となり、肩肘のはらない自然体での日本武道の発展に役立ってくれれば幸です。ありがとうございました。
                         
                         02年11月15日 記                           日本館 館長 本間 学
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